教室の中の近代

(7)『ああ玉杯に花うけて』

1920年代は大衆小説の興隆期であり、とりわけ20年代後半は少年小説の黄金時代だったと、池田浩士氏が指摘されています(『大衆小説の世界と反世界』1983 現代書館)。佐藤紅緑の『ああ玉杯に花うけて』は「少年倶楽部」の1927(昭和2)年5月号から1928(昭和…

(6)『防雪林』

1929年『蟹工船』を発表した小林多喜二は、北海道拓殖銀行を解雇され、1930年に上京。治安維持法違反容疑で5か月間収監されます。翌1931年に日本共産党入党し、この年の12月、以下のような文章を書いています。その全文を掲げておきます。 〈先生。 私は今…

(5)『風と光と二十の私と』

1925年から1年間、坂口安吾は世田谷下北沢の荏原尋常高等小学校の分教場の代用教員をしていました。坂口安吾20歳の時のことでした。五年生70名を担当したその時の経験は、1948年の『風と光と二十の私と』にあざやかに描かれています。 彼は、この自伝的エッ…

(4)『大導寺信輔の半生』

日本の近代文学作家のなかには教員を経験した人がかなりたくさんいるように思います。夏目漱石や島崎藤村などは正規の教員でしたが、石川啄木をはじめとして「代用教員」まで含めると、石牟礼道子・宇野千代・三浦綾子・宮尾登美子・坂口安吾といった人たち…

『白い壁』

昭和のはじめのころ、東京の下町の尋常小学校。鉄筋コンクリートの校舎が城砦のように聳え立っている。本庄陸男はその下町の小学校の教員経験を、後に『白い壁』(1934年)という小説に書いています。彼が編集長だった『人民文庫』が1938年廃刊に追いやられ…

『雲は天才である』

1906年4月石川啄木は故郷渋民村の尋常小学校の代用教員となります。このときの経験をもとに『雲は天才である』は書かれています。『足跡』『葉書』などにも尋常小学校の様子が映されています。『雲は天才である』(明治39年)に登場する代用教員、新田耕助(…

『千曲川のスケッチ』

1899年(明治32年)から島崎藤村は小諸義塾の教師を6年間勤めました。この時代の藤村の教員生活が『千曲川のスケッチ』からうかがうことができます。書かれたのは明治末年から大正初年です。雑誌『中学世界』に連載したものでした。夏目漱石の『坊ちゃん』は…