(6)『防雪林』

小林多喜二


 1929年『蟹工船』を発表した小林多喜二は、北海道拓殖銀行を解雇され、1930年に上京。治安維持法違反容疑で5か月間収監されます。翌1931年に日本共産党入党し、この年の12月、以下のような文章を書いています。その全文を掲げておきます。

〈先生。
 私は今日から休ませてもらいます。みんながイジめるし、馬鹿にするし、じゅ業料もおさめられないし、それに前から出すことにしてあった戦争のお金も出せないからです。先生も知っているように、私は誰よりもウンと勉強して偉くなりたいと思っていましたが、吉本さんや平賀さんまで、戦争のお金も出さないようなものはモウ友だちにはしてやらないと云うんです。――吉本さんや平賀さんまで遊んでくれなかったら、学校はじごくみたいなものです。
 先生。私はどんなに戦争のお金を出したいと思ってるか分りません。しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです。それだのに、お父さんにお金のことなんか云えますか。でも、みんなが、み国のためだというのでこの前、ほんとうに思い切って、お父さんに話してみました。そしたら、お父さんはしばらく考えていましたが、とッてもこわい顔をして、み国のためッてどういう事だか、先生にきいてこいと云うんです。後で、男のお父さんが涙をポロポロこぼして、あしたからコジキをしなければ、モウ食って行けなくなった、それに私もつれて行くッて云うんです。
 先生。
 お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみたいな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました。――先生はふだんから、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと云っていましたね。それだのに、どうして戦争はしてもいいんですか。
 先生、お父さんが可哀そうですから、どうか一日も早く戦争なんかやめるようにして下さい。そしたら、お父さんやみんながらくになります。戦争が長くなればなるほどかゝりも多くなるし、みんながモット/\たべられなくなって、日本もきっとロシヤみたいになる、とお父さんが云っています。
 先生。私は戦争のお金を出さなくてもいゝようにならなければ、みんなにいじめられますから、どうしても学校には行けません。お願いします。一日も早く戦争をやめさせて下さい。こゝの長屋ではモウ一月も仕事がなければ、みんなで役場へ出かけて行くと云っています。そうすれば、きっと日本もロシアみたいになります。
 どうぞ、お願いします。
 この手紙を、私のところへよく話しにくる或る小学教師が持って来た。高等科一年の級長の書いたものだそうである。原文のまゝである。――私はこれを読んで、もう一息だと思った。然しこの級長はこれから打ち当って行く生活からその本当のことを知るだろうと考えた。〉(『級長の願い』「東京パック」1932(昭和7)年2月号)

 
 こういう「生徒の手紙」やそれを持ってきたという「或る小学校教師」が実在していたかどうかは別にして、多喜二が学校の教員ならびに学校にたいして全否定的イメージを抱いてはいないらしいことは、この文章や、小説『防雪林』に登場する校長の描きようを見てもわかります。
 1926年からはじまった北海道の富良野農場での小作人たちの地代減額闘争は翌春には勝利していました。多喜二は1927年から翌年にかけて、石狩の平原に生きる貧農たちの、対地主闘争を『防雪林』に描いています。そのなかで、村の小学校の校長を次のように描きます。

〈小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
 源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。〉

 地主に小作料の減額を要求するための寄合は、小学校で開かれます。

〈話がかうしてゐるうちに纏つて行つた。源吉は誰からとなく、校長先生が裏に廻つてゐる、といふ事をきいた。所が、同じ村のある百姓が、地主のために、立退きをせまられてゐるといふことが出來上つてから、急にさういふことが積極的になつた。
 川向ひから、若い男がやつてきた。自分の方も一緒にやつた方が、地主に當るにも都合がいゝといふことを云つた。日を決めて、一度、小學校に集つて、其處で、どうするか、といふことを打ち合はせることにした。
 その日吹雪いた。風はめつたやたらにグル/\吹きまくつた。降つてくる雪は地面と平行線になつたり、逆に下から吹き上つたり、斜めになつたり、さうなるとすぐ眼先さへ、たゞ眞白に、見えなくなつてしまつた。それで道から外れると、膝まで雪の中にうづまつた。雪は外套のどんな隙からでも入りこんで、手の甲や、爪先などは、ヅキン/\痛んできた。小學校へは、遠い家は小一里もあつた。〉

 この校長先生は、農民たちを啓蒙し、小作闘争を支援するオルガナイザーとして描かれているのです。
 主人公は源吉という貧農で、小作闘争は地主と警察の弾圧で敗北し、復讐のために源吉は地主の家に放火するところで終わっていて、校長がどうなったかは描かれていません。多喜二はこれを書いたあと、なぜか発表しませんでした。そのあと多喜二は、1933年2月20日治安維持法違反容疑で逮捕され、東京・築地警察署でその日のうちに虐殺されてしまいます。29歳でした。
 教員が、当時どんな役割を国家から割り振られていたのか、多喜二が知らないはずはありません。にもかかわらず多喜二は学校の先生に、なにがしかの希望を抱いていたのだろうと考えます。逆に言えば、「左翼」は「先生」を、その啓蒙主義的な姿勢のゆえにか、はたまた「民衆」の生活を知らざるをえない位置にいたためなのか、自分たちの側に、より多く近づけて見すぎてしまったといえるでしょう。こうしたある意味で甘い見方を、戦後民主教育は、「先生」の側から引き継いできたのかもしれません。

* 写真は下記より
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=117&CGISESSID=6b275423d8c32136445019a6242171fd

*次の論文を参照しました。
「[防雪林]の芸術創作について」韓玲玲(東北師範大学院 日本研究所日本言語文学専門)
http://www.takiji-library.jp/announce/2007/2007030905.html

*引用はすべて青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/