うわさ話に抗して世界を見る

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オリバー・ストーン オン プーチン

うわさ話というものは、いささか信頼のおけないものであることを、私たちは経験的に知っています。「えー、あの人がそんなことするはずないよね」と考えて、直接本人に聞いてみると、まるで誤解だった、というようなことがあります。
ところで、テレビや新聞、ネットやSNSなどの情報があふれていますが、これも言ってみれば「うわさ話」と大きく違いません。どの新聞もネットもSNSまでも、同じような「話」を流しているものですから、「事実」や「真実」に違いない。「うわさ話」のような根も葉もないものとはきっと違うだろう、と。動画や写真まで見せられると、やっぱり事実だろう、と思ってしまいます。政府とか学者とか、一般に信頼されているとされる人たちが、その「真実性」を保障していると、ますます「真実」であると人は受け取ります。これが長期にわたって私たちの生活の中で流されると、事実や真実が、信仰や思想にまで侵入して、社会的信念を形成します。
かつての「大東亜戦争」の経験のことを言っているのではありません。現在の話です。現在の私たちは「自由・平等」や「民主主義」のなかで幸いにも暮らしている、というふうに多くの人は考えてきましたが、それは長い時間をかけて私たちのなかに積もってきた「うわさ話」にすぎないかも知れない、とふと気がつくときがあります。ふだん見聞きする事柄、友人や知人と話したりしているとき、買い物をしているとき、街を歩いているとき、そういう機会に、気がつきます。
私たちの日常生活は、とてつもなく狭い物ですから、直接見たり聞いたりできることは限られています。しかし、その狭い経験は「うわさ話」より確実ではないでしょうか。そこから「うわさ話」に抗して「世界」を見ることは困難ですが、不可能ではありません。
たとえばウラジーミル・プーチンの「うわさ話」ではなく、彼の話を丁寧に聞いた人(オリバー・ストーン)の記録映像に接することで、直接経験の世界を私たちは拡張することができます。

https://www.youtube.com/watch?v=nivJCOFKRk8

原田泰治の絵

諏訪にある原田泰治美術館で原田泰治の絵を見てきました。昔、子どもたちに読んであげていた絵本のなかに彼の絵本もありました。彼の描く家は決してまっすぐに立っていません。また地平線は平らなことはなく、左肩下がりだったりまるかったりします。遠近法など無視、というかそういう近代西欧絵画の流儀にとらわれていません。カメラで現場の写真を丁寧にとって、そこに住んでいる人たちと対話し、取材して描くそうです。でもカメラの写す世界とちがって、物語の世界が立ち現れています。

昔懐かしい日本が描かれることが多いのでしょうが、決してナショナルな気分の持ち主ではないようで、ブラジルやアメリカなどでも描いているそうで、そこに日本人が懐かしさを感じるとしたら、その懐かしさは「日本的」というものではなく普遍的な「懐かしさ」なのでしょう。

 

 

山本太郎の渾身の演説

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山本太郎の街頭演説

れいわ新選組を立ち上げた山本太郎の演説が素晴らしい。

私たちの日常生活の今全体を「政治」に接続して、惨憺たる政治状況のなかで、私たちの生活の場そのもので「政治」を突破しようとする。この人は新しい時代を開くオーラを持っている。

#れいわ新選組

www.youtube.com

 

(5)丑松の教室

泰明小学校


1 学校批判小説としての『破戒』

 島崎藤村は1906(明治39)年『破戒』を自費出版します。藤村34歳のときです。28歳の時に小諸義塾の教師となった藤村は、北国の人びとの生活をつぶさに観察し始めます。後に『千曲川のスケッチ』(1912)となる観察は『破戒』の中でも活かされています。『破戒』には小学校教師・瀬川丑松の学校の様子、生徒・教員も描かれています。小諸義塾のときの経験が生きていると考えられますが、『千曲川のスケッチ』などには学校や教員への批判は見受けられませんが、『破戒』には学校批判が強烈にでています。
 『破戒』が部落問題を主題化した小説として、発表当時から様々な批判や解釈が起きてきましたが、『破戒』のなかの学校批判をそれとして取り上げる議論はあまりなかったようです。丑松が部落民であることを告白する場面が教室であるにも関わらず、です。丑松が教室で土下座しながら穢多であることを隠していたと、高等四年の受け持ちの生徒たちにわびるのです。学校から放逐されて丑松はアメリカのテキサスに「逃げた」ということで、差別に負けて逃げるような「丑松」になってはいけない、という風に「教育」材料に取り上げられてきました。差別小説だ、というので絶版にされ(昭和4年)たり、「穢多」を「部落民」にかきかえるなど、藤村は改版を余儀なくされますが、戦後になって解説注釈つきで、初版に戻されます。『破戒』は近代的自我の葛藤・苦悩をえがいたものであって、社会問題、部落差別を主題にしたのではない、という議論と社会的プロテストとして部落差別を取り上げたのだという議論が対立してきました。柴田道子は「藤村は彼の主題自我の葛藤を効果的にするために「部落民」を素材にしたのではないか。……彼は立場の相違を無視して、傲慢にも部落民に一般民の自我をおしつけ「社会」(よのなか)と対立させた」(「『破戒』をめぐって」『ピエタロ』20号 昭和48年)と、批判し、部落解放に敵対するものとして断罪していました。部落解放同盟などの運動体が、差別につながるかも知れない小説に注文をつけるのは、小説の(非)教育的=政治的効果を考えてのことでしょう。この点では、プロレタリア文学運動に要請された観点と同じ視線で文学作品を見ていたのでした。
 ところが、『破戒』は、すぐれて学校批判を含んだ小説だったということは注視されてきていなかったようです。具体的に差別する者として登場するのは校長や郡視学や教員なのです。教育界から『破戒』にたいして、モデルになった飯山の寺の関係者が藤村に抗議しています。この抗議の仕方が差別発言そのもので、当時の飯山での差別がいかにきつかったか、丑松は土下座でもしなかったらリンチになったのではないか、と言う人もいます。藤村への抗議者は、「穢多を下宿などさせてない」とか、猪子蓮太郎のモデルとされる「大江磯吉が飯山の寺に講演に来たときには穢多だとわかったので追い出し、畳を換えて塩をまいた」などと「穢多」と飯山や寺は関わりないのだぞという言い方をしているのです。ところが、差別者として教育関係者を描いているのは不当であるというような抗議はなかったようですから、『破戒』のえがく学校での差別は「ありうること」として受け入れられたのでしょう。
 生徒の一人に仙太という部落の子がいます。テニスの相方に誰もなろうとしないので、丑松が仙太と組んで試合をします。ほかの生徒も校長も、丑松と仙太の組が負けるたのを大喜びします。天長節の儀式の後で生徒たちがうれしがってはね回るのと、壁により掛かって寂しそうにしている仙太を対比させます。
 校長は、こんな風に描かれます。

〈校長は応接室に居た。斯(この)人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にち/\)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
 斯(この)校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々(にち/\)の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。〉

 この校長が、甥の教員文平とはかって、丑松の追い落としの種を探るという設定になっています。丑松を追い落としてから、この校長は、このことの教育的意味をかたるのです。「校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素(ふだん)の行為(おこなひ)に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合である」と。
 当時の小学校教員たちは師範学校を出ても10年間は学校教員を続ける義務がありました。丑松もそれにしばられ、没落士族の教員敬之進は恩給まで数ヶ月のところで教員をやめていきます。敬之進の娘の志保は蓮華寺に奉公に出され、息子の省吾は丑松の受け持ちです。この敬之進の家族の惨めな貧しい生活丹念に書き込まれています。敬之進は酒におぼれながら丑松に語ります。

〈まあ君だから斯様(こん)なことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しまひ)には教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たとへ)僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そん)な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むちう)たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。〉

 藤村が、教育や学校を批判するために、こうした記述をしているとはいえません。小諸に就職した藤村は、あらゆるものを観察し記述していこうと決意しています。農夫たちの生活をあぜ道にすわって暗くなるまで観察しているばかりでなく、農業を自らもやり始めます。被差別部落の頭に話を聞きに行ったりまします。『破戒』には牧夫である丑松の父を死に追いやった牛の解体場面が忠実に描かれていますが、『千曲川のスケッチ』には藤村が牛肉売りの男に案内を頼んで屠牛場を見に行ったことが書かれています。牧夫の生活も、藤村が山小屋まで案内してもらって話を聞いていることが『千曲川のスケッチ』にでています。藤村は探求者であり、観察者なのです。ですから、学校や教育のありのままを描こうとしただけなのだと思いますが、それ故に鋭い学校批判になっているのです。

2 部落民宣言と丑松の「告白」

 手元に『兵庫解放教育研究第二回大会報告集』(1975年)というのがあります。そこに県立尼崎工業高等学校の吉岡光政の報告「先生はまだ担任する資格がない」がのっています。一部を引用してみます。

〈二年生の五月だった。歓迎遠足の欠席者の点検として始まったHRで、Mが居すわる。
 「オマエらそんなことで社会に出て生きていけるんか。自分さえよければ、ええ、他のヤツなんかと思うて生きていくんか!」
 「オマエらみたいなボンボン育ちにはわからんやろな。自分の意見もようもたんボンボンが社会で通用し、村育ちのガキで自分の意見もったヤツが差別される。イヤな世の中や」
 彼はおいたちに触れながらクラスに迫っていく。「オレはそんな苦労してないのでどう言うてええかわからん」といってつぶされたり、Mのことどう思うか、という流れになったりする。
 「オレのことを討議してくれとは言うてない。オレはオレで生きていく。オマエら裸にならんかい」Mは一歩も引きさがらぬ。
 柔道部のマネージャーをみごとに果したJは、父が過労で視力を失い、かつてどん底の生活を送ったこと、早く卒業して家計を助けたいと語る。
 体育委員としてきばってきたDは、父が小児マヒ後遺症で、金さえあればきっちり手術できたはずなのに、金がなく切断し義足であるといったまま泣き崩れる。
 沖縄出身のGは、三年前「本土」にきたこと、父は学歴がなく就職もむずかしかったこと、(都会)の人間はつめたいことを語り、お母さんは学校へ行ってなくて字知らん、といったまま机に顔を伏せる。
 教室の中は鳴咽が響き合う。語ろうとして語り切れず、静かな衝撃波が伝わる中で、あるさわやかさがひろがる。
 「オレの住んでるところは部落や」とT夫が言ったまま泣いてしまう。
 「なんで部落のもんが泣かんならんね!」Mは声を張りあげる。身内を励ますことで自らを励まし、撃つ。〉


 Mは被差別部落出身の父と離婚した母のことを書いた作文を書き、担任はHRのまえにそれを配っている。担任は部落出身生徒には〈部落奨学金〉の受給の話を、在日朝鮮人生徒には〈朝鮮奨学会〉の奨学金の受給と本名について話している。だから、担任との関係では、すでに半ば強制的に部落出身生徒や在日朝鮮人生徒は、「秘密」をなくされていることになります。そうした下準備のあとで、HRで「部落民宣言」や在日朝鮮人の名乗りが行われていたのです。解放教育の中での「宣言」は、いわば主体の回復宣言として、差別と戦う宣言として肯定的評価をされてきました。丑松の「告白(うちあけ)」は「秘密」の自己開示であるにもかかわらず、差別に負けた敗北の姿と理解されてきました。はたしてそういう線引きができるのでしょうか。
 丑松の「告白」はなぜ「教室」だったのでしょうか。猪子蓮太郎に何回も「告白」しようとして、その機会をねらいながら、それが果たせないまま、猪子蓮太郎はリンチにあって死んでしまいます。同僚で友人の銀之助は、はなから丑松を部落民だとは思っていないのです。告白を決意した丑松は受け持ちの生徒たちのまえでの告白を選択しています。それが自然であるような組み立てを藤村はしています。

〈丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止(とゞ)めかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑(そのわび)から始めて、刪正(なほ)して遣(や)りたいは遣りたいが、最早(もう)其を為(す)る暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今別離(わかれ)を告げる為に是処(こゝ)に立つて居るといふことを話した。
『皆さんも御存じでせう。』と丑松は噛んで含めるやうに言つた。『是(この)山国に住む人々を分けて見ると、大凡(おおよそ)五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶(ばうさん)と、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団(ひとかたまり)に成つて居て、皆さんの履(は)く麻裏(あさうら)を造(つく)つたり、靴や太鼓や三味線等を製(こしら)へたり、あるものは又お百姓して生活(くらし)を立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親(おとつ)さんや祖父(おぢい)さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物(くひもの)なぞを頂戴して、決して敷居から内部(なか)へは一歩(ひとあし)も入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出(おいで)になりますと、煙草(たばこ)は燐寸(マッチ)で喫(の)んで頂いて、御茶は有(あり)ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もし其穢多が斯(こ)の教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんは奈何(どう)思ひませうか――実は、私は其卑賤(いや)しい穢多の一人です。』
 手も足も烈しく慄(ふる)へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸(ひとみ)を注いだのである。
『皆さんも最早(もう)十五六――万更(まんざら)世情(ものごゝろ)を知らないといふ年齢(とし)でも有ません。何卒(どうぞ)私の言ふことを克(よ)く記憶(おぼ)えて置いて下さい。』と丑松は名残惜(なごりを)しさうに言葉を継(つ)いだ。
『これから将来(さき)、五年十年と経つて、稀(たま)に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白(うちあ)けて、別離(わかれ)を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇(とそ)を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福(しあはせ)を、出世を祈ると言つたツけ――斯(か)う思出して頂きたいのです。私が今斯(か)ういふことを告白(うちあ)けましたら、定めし皆さんは穢(けがらは)しいといふ感想(かんじ)を起すでせう。あゝ、仮令(たとひ)私は卑賤(いや)しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想(かんがへ)を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄(こんにちまで)のことは何卒(どうか)許して下さい。』
 斯(か)う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入(わびい)るやうに頭を下げた。
『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽(かく)して居たのは全く済(す)まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白(うちあ)けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』
 と斯う添加(つけた)して言つた。
 丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へ跪(ひざまづ)いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、伸(の)しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤(なみ)のやうに是方(こちら)へ押溢(おしあふ)れて来た。〉

 このあと生徒たちは丑松がやめないですむように校長のところにお願いに行きます。校長が「彼様(あゝ)いふ良い教師を失ふといふことは、諸君ばかりぢやない、我輩も残念に思ふ。」とか対応しながら「大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動」と子どもたちを批判して追い返す。「諸君は勉強が第一です」と。丑松が旅立つときに、生徒たちは丑松を見送ろうとするが校長は「不可」という。銀之助は校長たちを批判するが、丑松は生徒たちを帰すように言う。藤村は学校制度やそれを支えている校長や郡視学などの人びとを批判的に描いてきたのですが、「教室」の生徒たちには希望の視線を向けているのです。丑松の「告白」が「教室」で行われたのはそうした藤村の希望を語っていましょう。
 解放研の生徒たちの部落民宣言は「勝利」であって、丑松の「告白」は敗北である、という言い方は成り立たないでしょう。隠してきた、隠すべきこと、社会に知れたら自分の不利になること、そういう「秘密」を、自ら開示するという点では、どちらも同じです。隠すことで社会のそうした抑圧を内面化してしまうことから自己を解放する行為として「告白」や「宣言」はあったのです。よくいわれるように「テキサス」に丑松は「逃げた」のではないのです。当時、社会主義者片山潜でさえアメリカ移住の計画をしていたし、西光万吉なども南方に移住しようとマレー語を勉強したりしていたからというより、『破戒』に描かれる丑松の「告白」後の晴れやかさを読めば自明であるハズなのです。
 しかし、この教室での「告白=宣言」こそ、近代の「主体」形成の場であり、敗北者の逆転のダイナミズムが出現する舞台だったのです。柄谷行人は言います。

〈近代的な「主体」ははじめからあるのではなく、一つの転倒として出現したのだ。十九世紀西洋の近代思想をどんなにとりいれても、このような「主体」は出てこない。平板な啓蒙主義にはこのような転倒が欠けている。今日の眼からみて「近代文学」とみえるものが例外なしにキリスト教を媒介していることは、影響といったような問題ではない。そこには「精神的革命」があったのであり、しかもそれは「時代の陰」すなわちルサンチマンにみちた陰湿な心性から出てきたものだ。しかも、「愛」が語られたのは、まさに彼らからなのである。
 彼らは「告白」をはじめた。しかし、キリスト教徒であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもうひとつの権力意志だからである。告白はけっして改悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。(中略)
 私は何も隠していない、ここには「真実」がある……告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが少なくとも「真実」を語った、ということを主張している。(中略)告白という制度を支えるのは、このような権力意志である。私はどんな観念も思想も主張しない、たんに、ものを書くのだと、今日の作家はいう。だが、それこそ「告白」というものに付随する転倒なのである。告白という制度は、外的な権力からきたものではなく、逆にそれに対立して出てきたのだ。だからこそ、この制度は制度として否定されることはありえない。また、今日の作家が狭義の告白を斥けたとしても、「文学」そのものにそれがある。〉(『日本近代文学の起源』1980 増補改訂版 定本柄谷行人集1 p.116)

 被差別部落出身者が「部落民宣言」で、これまで弱さや秘密としてきたことを逆手にとって自己の「主体」を獲得し、被差別の仲間たちに、「裸になれ」と、このような「主体」の確立へと誘う権力に成長していく。こうした闘い方は、近代初期の支配権力への政治的抵抗の挫折の後で、ルサンチマンから出たにしろ近代文学という「文化様式」を日本に確立した「告白」小説(私小説)という伝統の様式の系譜上にあったのです。支配権力によって人間としての尊厳をつぶされていった人びとが依拠する最後の抵抗拠点が「告白=宣言」であったのでした。そのいみで解放運動は、日本近代文学運動の直系でさえあったのでした。
 ところで、一個人の個人的な生い立ちや秘密の「告白」行為が、単なる個人的で個別の私事ではなく、「公」の場で普遍的な意味を持つのだという認識がないかぎり「告白」は愚痴やいいわけと峻別できなくなってしまいましょう。私小説が日本の特殊な表現形式として市民権を得てきた経緯を平野謙は次のように説明します。

〈大正8・9年までに出そろった文壇交友録小説という一種の私小説の源流としては、やはり白樺派の自己小説──自己を中心として、その肉親、家族、恋愛、交友などを無飾に描いていった武者小路の『お目出たき人』『世間知らず』を先蹤とするあの天衣無縫の自己表白の文学まで遡らなければならぬ。個の伸張、我の発揚がそのまま人類の意志にかようと思考した一群の大胆な自己表白者の文学こそ、また私小説の一濫觴にほかならない。そこにあっては、人性そのものに根ざしているかのような(近松)秋江流の痴愚愛執の妄念とはうらはらに、普遍につらなる人類の善意を信じて疑わぬエリート意識がその真率な自己表白を支えていた。〉(「私小説の二律背反」昭和26年 『芸術と実生活』所収)

 被差別の状況に置かれていた生徒たちが、それぞれの被差別状況への抗議をこめて「告白」することには社会的差別へのプロテストの意義があった。しかし、とりわけて被差別状況でない者でも己を語ることに「普遍的意義」がある、としなければ実は解放教育のなかでのHRは成立しなかった。個と普遍を直結する伝統は、実は日本の近代文学私小説的伝統にあったわけです。
 もっとも、これは昔のことではありません。俳優やタレントの個人的なスキャンダルともいえないような些事をテレビなどのマスコミがおいかけ、それを受容する風土は、私小説の風土と同じものであるし、「世界に一つだけの花」という思考様式も同根でしょう。
 丑松の告白も、部落民宣言も「教室」で展開されたということは、示唆的です。近代文学がしつらえた「愛」の「告白」が、プライベートな空間を切り開き、近代の政治が、公共空間を開拓してきたのだとすれば、学校の「教室」は「真実」や「真理」、いいかえれば前近代では隠されていた秘密が開示される「親密空間」として、「私」と「公」を接続する空間として登場してきていたのだ、ということを意味していないでしょうか。教室で「教えられる」真理や真実を媒介に、「立身出世」の暁には政治支配権力として変身しうるというのが、実は近代教育制度の権力意志だったのではないでしょうか。教育者は間接的権力意志の権化として無意識的に定義してきたとしても不思議ではありません。『破戒』の描く校長や郡視学たちの姿ばかりではなく、たとえば東京帝国大学教授をすぐ辞めてしまった夏目漱石は小説のあちこちで教育者を皮肉っています。『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の髭の手入れは「教育者がいたずらに生徒の本性をためて、ぼくの手がらを見たまえと誇るようなものでごうも非難すべき理由はない」と猫に皮肉らせています。『坊ちゃん』全編は、倉石さんが明らかにしたように(「坊っちゃんの悲劇性」『教育の境界』所収)教育という界の「他者」による枠取りであったのでした。すでにして「文学」的相貌をなしていた教育界に、「近代文学」のありように疑問を持っていた漱石はその教育界にことよせて、その異和感を「写生」するしかなかったわけです。
 
3 学校教育の「ふるさと」
 
 以前に坂口安吾の「文学のふるさと」(現代文學 第4巻第6号 1941年8月号)をとりあげて、安吾が「突き放される」経験のなかに文学のふるさとをみたことを取り上げたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/deschoolman/20071018#1192690769
それにならって考えてみましょう。
 丑松が告白した「教室」、部落民宣言がおこなわれた「教室」。そこはいってみれば近代教育の「ふるさと」といえるかもしれません。石川啄木フランス革命のアジ演説をし、丑松が「告白」の場を提供した「教室」。斎藤喜博が、汚い政治と縁を切った、文化遺産である「真理」をはさんで教師と生徒が高めあうところの「教室」。多くの教員たちが教室で自分たちの夢をめざして「実践」に励んできた「教室」。そこは、カリキュラムに基づいて「真理」が予定どおり展開されるところではなく、「突き放される」経験をふんだんに含んだ場であったのではないでしょうか。しかし、そういう「教室」はいまや消え去ろうとしているのではないでしょうか。「告白」や「宣言」はおろか、冗談やユーモアがなくなっていく状況があるのではないでしょうか。
 学校経験は明治以降、ほとんどすべての人たちの人生経験を構成してきました。作家たちも例外ではありませんから、自らの学校経験を作品の中に書き込んできました。「教室」が「主体」形成の場所としてあったのだとすれば、「教室」が作品の中に登場する度合いは高かったのではないでしょうか。だとすれば、「教室」が作品のなかで描かれなくなる現象があるとすれば、私たちは学校教育の「主体」形成力の衰退を見なければならないことになりましょう。
 小説に学校があまり登場しなくなってはいても、ドラマや漫画には学校や教師は相変わらずたくさん登場するということでした。山田浩之『マンガが語る教師像』(2004 昭和堂)にはたくさんの学校マンガが紹介され、そこに登場する教師像が分析されています。そこでは部活動を指導する教師とか恋愛対象としての教師などが多く登場しますが、「教室」が主な舞台になるマンガは少ないようです。学校や教室はそこでは単なる舞台装置にすぎないような気がします。学校はそれこそ子どもたちが「生きる」「すまう」場所として提供されているのであって、学校や教室がそれ固有の機能によって登場するのではないといえそうです。「教室」がわずかに登場する小説、山田詠美『僕は勉強ができない』の冒頭に「教室」でのHR委員の選挙場面が出てきますが、気の抜けたビールのような風景であるのは、私の主観のせいでしょうか。マンガに背景としての教室が描かれるのと同じでしょう。学園モノであっても、現実に起きている学校や教育をめぐる深刻な状況に切り込んでいるモノがあるのかもしれませんが、特異な事件や○○問題として取り上げるとしても、そのなかで日常の「教室」をリアルに描いたような作品に行き当たるような気がしません。漱石や藤村の時代に学校が持っていた文化的位置、文字どおり近代的「主体」形成の装置としての学校の社会的機能がいつのまにか脱落していったのではないのだろうか、と推測するからです。
 たとえば、下記のような文は、けっして作家たちによって今どき書かれることはないでしょう。

〈学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑(くず)、塩酸の壜(びん)、コップ、玻璃管(ガラスくだ)などが置いてあった。蝋燭(ろうそく)の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾(かし)げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋(ふた)の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
 無邪気な学生等は学士の机の周囲(まわり)に集って、口を開いたり、眼を円(まる)くしたりして眺めていた。微笑(ほほえ)むもの、腕組するもの、頬杖(ほおづえ)突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠(ねずみ)を入れると直(すぐ)に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
 問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕(つかま)えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂(はち)ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫(さ)すぞ螫すぞ」
 口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反(そ)らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶(もだ)えて、死んだ。
「最早(もう)マイりましたかネ」
 と学士も笑った。〉(島崎藤村千曲川のスケッチ』)

 この教室ではすでに授業は終わっているのです。生徒たちの授業での驚きとその後の行動は、指導案の外部でしょう。予想外の応答、他者との遭遇があるのが「教室」でしょう。部落民宣言の教室も、丑松の教室での生徒たちへの別れの告白も、いってみれば指導案にとっては全くの外部です。しかし、そうした外部を「教室」は包摂してきたのです。斎藤喜博も林竹二も「教室」を外部に閉じられたものとしてイメージしたかもしれませんが、彼らの授業は外部を予期に反して突然引き入れ、それとぶつかり思考するものだったように思います。教師が「報告」する授業実践と、現象している教室の事態とはまた別物でもあるのです。ところが、教師の実践報告は、指導案を意識的無意識的に参照し、あるいはすぐれた実践をコピーすることで、言ってみれば「教室」が主体産出のふるさととして機能してきた「近代のふるさと」を忘れていったのです。それは教師一個の責任だけでは勿論なく、「近代のふるさと」「教育のふるさと」を消していく「教育改革」行政によるところが大きかったのではないでしょうか。


参考文献
平野謙『芸術と実生活』(新潮社 1964)
瀬沼茂樹『評伝 島崎藤村』(筑摩書房 1981)
柄谷行人坂口安吾中上健次』(講談社 2006)
東栄蔵『続「破戒」の評価と部落問題』(明治図書 1981)

(4)消える教室

deschoolman2008-06-19


日露戦争のさなか、「遼陽の占領」の「万歳! 日本帝国万歳」の提灯行列の声を聞きながら、林清三(『田舎教師』の主人公の小学校教師)は肺病で死んでいきますが、物語は、彼の教え子で師範学校に行って教員になった女性が彼の墓の前で泣いているというところで終わっています。『田舎教師』では、ほとんど教室での清三の姿は登場せずに、貧しい惨めな小学校教員の生活が描かれています。ですから、この終わり方は、いささかとってつけたようなのですが、教室での教師─生徒関係が、現実の暗い生活とは別の物であること、学校を小説の舞台にするとき、そこに希望を見いだすという意識があることを示しています。島崎藤村の『破戒』は強烈な学校批判を内包しているといいましたが、「教室」の生徒と教員の関係はそれとは別なのです。丑松をやめさせないでくれ、と丑松の生徒たちは校長に嘆願に行きます。このときの校長の対応は次のように描かれます。
 

其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動でせう。』と言はれて、級長は何か弁解(いひわけ)を為ようとしたが、軈て涙ぐんで黙つて了つた。

 丑松のつとめる小学校のいわゆる「モデル」は飯山尋常小学校で、下宿先の蓮華寺は飯山の真宗寺だろうというので、それをあしざまに書いている、とりわけ「穢多」の教員がいたなどと書いたのはけしからんというので、飯山では、藤村の作品の舞台であることなど忘れてしまいたいようですが、こういう生徒を描いているではないか、などとは考えなかったんですね。それはともかく、ここでも教師─生徒関係の成立する教室は、いわば批判の対象ではないのです。むしろ、そこにこそ希望を見いだしているのです。丑松が被差別部落の出身であることを「教室」で生徒たちに告白したという設定の意味はそこにありましょう(解放教育のなかで、部落民宣言は必ず「教室」で行われたことに意味ともつながるのでしょう)。高等四年の級長は、校長に次のように言っているのです。

『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情(こゝろもち)を表白(いひあらは)した。何卒(どうか)して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令(たとへ)穢多であらうと、其様(そん)なことは厭(いと)はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。

 いわば教室は近代の実験場として、希望を語りうる場所として、さらにはその外の前近代の社会を批判しうる場所としてイメージされているのではないでしょうか。「学校」が立身出世の必須の場所として認知され、〈地〉になりかけている『ああ玉杯に花うけて』(1927)でも、街と権力者に対して校長・教員と生徒が一体になって対抗する姿が描かれています。もっともここでは、漱石や藤村にあった学校批判は消失しています。
 林清三が死んだ年、日露戦争が終わった年に、大阪の小学校教員軽部の息子として豹一は生まれたという設定になっているのが、織田作之助の『青春の逆説』(1941)です。軽部は、こんな風に描かれます。

お君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取り入るためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の驥尾に附して、日本橋筋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。

といったふうに、卑小な脇役としてえがかれ、豹一は、母の内職で中学に行きますが、その中学では映画を見に行ったというので停学処分になります。もはや、あの「教室」はなくなっています。

一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。

 三高にはいった主人公は、この学校のエリート主義にあわずに退学してしまいます(織田作之助も三高を退学していますが)。『青春の逆説』では、学校や先生や学生は、さまざまな風俗の一つとして描かれているに過ぎません。青春の希望や不安や期待がとどまるような場所としてではなく、街の風俗の一つなのです。母のお君が再婚した相手の高利貸は、豹一の学資をだしたりしません。妻や息子から家賃をとる吝嗇漢にとって学校はなんの意味もないところです。『青春の逆説』が批判するのは旧制中学や高校の生徒たちの鼻持ちならないエリート主義であって、それをも一つの不細工な風俗として描き出すことに意味があるので、学校批判によってなにか別の希望を見いだそうとするわけではありません。女学生紀代子とデートするときでも豹一は、貧しい生活のなかの母を考えてしまいます。

しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)

 近代文学は、延々と「家」や「家族」について書き続けてきたし、今でも書き続けています。恋愛小説はもちろん推理小説でも、母─子、あるいは父─子、夫─妻、恋人どうしなど、親密な関係を巡って書かれる作品は、飽きることを知りません。いわばずーっと主題であり続けています。ところが学校はそうではありません。家族はその解体が言われ続けてきましたが、作品は書かれ続け、学校は、時にその解体が話題になりはしても、いまや学校の改革は話題になっても解体などという人はありません。なのにフクションの世界から「学校」は影が薄くなっているような気がします。あの「教室」は作家たちの中から、また私たちの中から、消えてしまったのでしょうか? いや、そんなことはない、熱心な教師たちは、その「教室」のために生きているのだ、という声も聞こえてきます。それはそうだろうと思います。問題は、その場所がフクションの世界から消えていくことのほうにありましょう。新しい時代の息吹を創作家たちはその鋭い感性で、小説の主題にしてきました。だとすれば、作品から「教室」が消えていくのは、どんな世界の出現の予兆なのでしょうか?

写真は織田作之助
http://www.odasaku.com/oda-room.html より

(3)〈地〉化する〈学校〉

deschoolman2008-06-17


 何十年も小説を読まなくなっていた「特性」を「生かして」、昔の小説と、最近の小説を交互に読んでいます。たぶん何万分の1くらいしか読んでいないので、印象と独断の仮説の連続になるだろうと思いますが、今時の小説になれてしまう前にメモしておくことにします。

 夏目漱石の作品には「先生」や「学生」や「学校」がたくさん登場します。『我が輩は猫である』の「猫」の飼い主、苦沙弥先生は、高等学校の英語の先生だし、『三四郎』の小川三四郎東京帝国大学の学生です。そんなことは誰でも知っていますが、先生や学校の扱い方が、今時の小説とは違っています。「先生」や「学校」は小説の単なる背景とか場ではなくて、小説に不可欠な「主題」になっているのが漱石のそれらの作品です。ところが、学園物と称せられる小説もふくめて、今時の小説にも先生や学生や学校は登場しますが、それらでは、おおよそ学校や先生は、「主題」ではなく背景です。地と図ということでいえば、総じて今時の小説に登場する学校は「地」なのです。ところが漱石に限らず、明治期の小説に登場する学校や先生は、「地」ではなく、「図」なのです。もっとはっきり言えば、学校や先生にたいする批判意識がせり出しています。石川啄木の小説もそうですが、島崎藤村の『破戒』なども、実は学校や教員にたいする批判意識が強烈にあるのです。丑松を追い出した校長たちは、丑松の追放を「改革」なのだと位置づけているところが後ろの方にありましょう。

昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素の行為に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合であると言つたこと――そんなこんなは銀之助の知らない出来事であつた。あゝ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑――世を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追ひ迫つて来たのである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1502_24633.html


 最近の小説は、主人公が学生でも、学校が「主題」として登場しないように思えます。しかし、たとえば『三四郎』では、

 それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。
 ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か寓意でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」

 大学生活の手引きのような書き方の中に「学校」を問題化する視線があるわけです。田山花袋の『田舎教師』は実在の小学校教師の日記を資料に使って、中学校を卒業して小学校の教師をしているまずしい地方の青年を丹念に描いているわけですが、青年の挫折は学校という図のなかで描き出されています。

学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1668_26031.html

 こういうなんでもないような学校の記述ですが、最近の小説ではお目にかかれない気がします。それは〈学校〉が近代の歴史の進行と共に、舞台に登場する役者ではなく、背景画、動くことのない自明の前提として近代の舞台の中に繰り込まれ〈地〉になってしまったからではないでしょうか。そうだとすれば、近代文学の初期の方にこそ、学校を相対化し、批判する言説は多く見られるハズだということになりましょう。
 前に、芥川の『大導寺信輔の半生』を取り上げて、芥川の学校への懐疑を感じ取りましたが、一般的に言えば、この世界を描こうとする作家が、現実にある世界をそのまま肯定するというのは創作行為の自己矛盾でしょうから、学校批判があるのは当たり前なのです。本庄陸男が『白い壁』でリアルな教室の現実を小説の中に繰り込み学校制度を「問題」化したり、坂口安吾が『風と光と二十の私と』で、いわば、みごとともおもえる自分の教育実践を「老成の空虚」として描くことで、学校という制度がどういうものを生み出すのか批判的に具体的に描き出していました。このように学校や教室の細部が、今時に小説の中に登場しなくなっているのだとしたら、それは〈地〉になってしまった〈図〉を見ることができないからだろうといえましょう。近代文学は、かつて封建社会の〈地〉に組み込まれていた「私」を〈図〉化することで、自らを確立しました。しかし、いまや近代文学は自らが織り込まれている〈地〉から〈図〉を取り出すことができないのでしょうか。これは単に文学者の責任と言うよりも、学校制度を支えてきた、支えている私たちが〈学校〉を〈地〉化したまま、そこに埋もれている自らの輪郭を見ることができなくなっているからなのでしょう。もしかしたら、近代文学の消滅は学校の「力」なのかもしれないのです。

画像は
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(2)モノが薄れる

deschoolman2008-06-13


 本を読むということは、「モデル作者」と「語り手」と「モデル読者」が互いに相手を作り上げることなのだ、とウンベルト・エーコは言っています。たとえば「私」という語り手が、語りはじめたとして、読者は、その物語の成り行きを傍観しているのではなく、「私」やその語り手の背後から「モデル作者」が読者に語りかけ、介入してくるのが「読書」というプロセスであるとエーコ先生は『エーコの文学講義』のなかで言っています。
 私は本を読むのが、ホント絶望的に遅いのです。なぜ遅いのか考えてみると、語り手や作者の「語りかけ」に、すぐその場で応答しようとしてしまうんですね。小学生のころ、「読書感想文」というのを書いてこいと言われて、本に書いてあることから触発された自分の経験などを書いていったら「これは読書感想文ではない」と先生がクラスの前で説教して、恥をかいたのを覚えています。いまだに、いわば「脱線読書」ばかりしているので、絶望的に読むのが遅いのでしょう。ですが、エーコ先生に従えば、私の読書こそは作者から期待されている「モデル読者」なのではないか、と居直りたくなります。
 それはともかく、この語り手と読者と作者の相互作用も、当然のことながら時代の変容とともに大きく変わった来ているのだろうと思います。たとえば以下の文章を読んでください。

 毎日よく降つた。もはや梅雨明けの季節が來ている。町を呼んで通る竿竹賣の聲がするのも、この季節にふさはしい。蠶豆賣(そらまめうり)の來る頃は既に過ぎ去り、青梅を賣りに來るにもやゝ遲く、すゞしい朝顏の呼聲を聞きつけるにはまだすこし早くて、今は青い唐辛(たうがらし)の荷をかついだ男が來はじめる頃だ。住めば都とやら。山家生れの私なぞには、さうでもない。むしろ住めば田舍といふ氣がして來る。實際、この界隈に見つけるものは都會の中の田舍であるが、でもさすがに町の中らしく、朝晩に呼んで來る物賣の聲は絶えない。(島崎藤村『短夜の頃』)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/46402_27009.html

 朝顔売とか、そらまめ売とか、青唐辛子などを売り歩く人たちを見たことがない読者でも、物売りの声を聞いたことがあれば、それなりにこういう情景を描くことができるでしょうが、竿竹売りの声も聞いたことがないと、こういう文章から、モノを通しての季節のうつりゆきを感じとるのはとてもむつかしいのではないでしょうか。そういう時代になってしまうと、「モデル作者」はこういう文章を書けなくなりましょう。
 これは、どうでしょう。

 板ばりの床にひかれた感じのいいマット、雄一のはいているスリッパの質の良さ──必要最小限のよく使いこまれた台所用品がきちんと並んでかかっている。シルバーストーンのフライパンと、ドイツ製皮むき器は家にもあった。横着な祖母が、楽してするする皮がむけると喜んだものだ。
 小さき蛍光灯に照らされて、しんと出番を待つ食器類、光るグラス。ちょっと見ると全くバラバラでも、妙に品のいいものばかりだった。特別に作るための……たとえばどんぶりとか、グラタン皿とか、巨大な皿とか、ふたつきのビールジョッキとかがあるのも、なんだかよかった。小さい冷蔵庫も、雄一がいいというので開けてみたら、きちんと整っていて、入れっぱなしのものがなかった。
 うんうんうなずきながら、見て回った。いい台所だった。私は、この台所をひとめでとても愛した。(吉本ばなな『キッチン』1987)

 よほどの料理好きでないかぎり、初めてみたよその家の台所に「ほれる」なんてことは起こらないだろうなー、と私などは思ってしまいます。ドイツ製皮むき器はどんなものか知りませんが、包丁一本あったらたりることだし、ふたつきのビールジョッキも、このころはやったのかもしれませんが、がらくたでしょう。冷蔵庫のなかに入れっぱなしのものがない、なんてのも生活のにおいがしない、気持ち悪い家だな、などとかんがえてしまう私などはこの小説の「モデル読者」にはなれないようですね。時代から言えば、私は吉本の時代に生きているのに、藤村の文章の「読者」のほうにより近いのはなぜなのでしょうか?
 小説にはさまざまなモノが登場してきます。それが登場人物に劣らず固有性を帯びているとき、私たちは、そこに小さな世界を読み取ります。それは場所と時代の刻印を押されて堂々と存在して初めて私たちは、そこに私たちが暮らしている世界とは別の世界が展開している実感をえます。モノが存在感をもって生きていなければ、モノと共に暮らしている登場人物たちも、ただの虚構にみえてきます。
 前回、「地名が薄れる」で、このごろの小説から具体的な地名がなくなっているのではないか、ということをいいましたが、地名だけではなく、モノもまたその存在性が薄くなっているのではないでしょうか。川上弘美の『センセイの鞄』(2001)のはじめのほうに、センセイが駅弁についてくるお茶入れ(陶製)をいくつも出してきて、これは妻とどこに行ったときのもの、これは……と語る場面があります。固有性を認識できるのはセンセイだけ、「モデル作者」も「モデル読者」も、そのモノを認識できない。そういうモノばかりのなかに私たちが取り囲まれている、ということを表現したかったりしたのかもしれませんが。あるいはセンセイの思い出への固着という事態のほうが問題だったので、個別のお茶入れを描き分ける必要もなかったのかもしれません。モノは舞台装置にもならず、背景画に描かれる動かない物でしかなくなっているように思うのは私の「歳」のせいなのでしょうか。
 あまり〈学校〉とつながりませんが、『国語』の教科書に登場する作品のなかのモノを、国語の先生はどのように扱ってきたのでしょうか。そういう設定で考えるべきなのかもしれませんね。

朝顔売:写真は下記より 
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no40.html