(3)〈地〉化する〈学校〉

deschoolman2008-06-17


 何十年も小説を読まなくなっていた「特性」を「生かして」、昔の小説と、最近の小説を交互に読んでいます。たぶん何万分の1くらいしか読んでいないので、印象と独断の仮説の連続になるだろうと思いますが、今時の小説になれてしまう前にメモしておくことにします。

 夏目漱石の作品には「先生」や「学生」や「学校」がたくさん登場します。『我が輩は猫である』の「猫」の飼い主、苦沙弥先生は、高等学校の英語の先生だし、『三四郎』の小川三四郎東京帝国大学の学生です。そんなことは誰でも知っていますが、先生や学校の扱い方が、今時の小説とは違っています。「先生」や「学校」は小説の単なる背景とか場ではなくて、小説に不可欠な「主題」になっているのが漱石のそれらの作品です。ところが、学園物と称せられる小説もふくめて、今時の小説にも先生や学生や学校は登場しますが、それらでは、おおよそ学校や先生は、「主題」ではなく背景です。地と図ということでいえば、総じて今時の小説に登場する学校は「地」なのです。ところが漱石に限らず、明治期の小説に登場する学校や先生は、「地」ではなく、「図」なのです。もっとはっきり言えば、学校や先生にたいする批判意識がせり出しています。石川啄木の小説もそうですが、島崎藤村の『破戒』なども、実は学校や教員にたいする批判意識が強烈にあるのです。丑松を追い出した校長たちは、丑松の追放を「改革」なのだと位置づけているところが後ろの方にありましょう。

昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素の行為に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合であると言つたこと――そんなこんなは銀之助の知らない出来事であつた。あゝ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑――世を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追ひ迫つて来たのである。
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 最近の小説は、主人公が学生でも、学校が「主題」として登場しないように思えます。しかし、たとえば『三四郎』では、

 それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。
 ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か寓意でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」

 大学生活の手引きのような書き方の中に「学校」を問題化する視線があるわけです。田山花袋の『田舎教師』は実在の小学校教師の日記を資料に使って、中学校を卒業して小学校の教師をしているまずしい地方の青年を丹念に描いているわけですが、青年の挫折は学校という図のなかで描き出されています。

学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。
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 こういうなんでもないような学校の記述ですが、最近の小説ではお目にかかれない気がします。それは〈学校〉が近代の歴史の進行と共に、舞台に登場する役者ではなく、背景画、動くことのない自明の前提として近代の舞台の中に繰り込まれ〈地〉になってしまったからではないでしょうか。そうだとすれば、近代文学の初期の方にこそ、学校を相対化し、批判する言説は多く見られるハズだということになりましょう。
 前に、芥川の『大導寺信輔の半生』を取り上げて、芥川の学校への懐疑を感じ取りましたが、一般的に言えば、この世界を描こうとする作家が、現実にある世界をそのまま肯定するというのは創作行為の自己矛盾でしょうから、学校批判があるのは当たり前なのです。本庄陸男が『白い壁』でリアルな教室の現実を小説の中に繰り込み学校制度を「問題」化したり、坂口安吾が『風と光と二十の私と』で、いわば、みごとともおもえる自分の教育実践を「老成の空虚」として描くことで、学校という制度がどういうものを生み出すのか批判的に具体的に描き出していました。このように学校や教室の細部が、今時に小説の中に登場しなくなっているのだとしたら、それは〈地〉になってしまった〈図〉を見ることができないからだろうといえましょう。近代文学は、かつて封建社会の〈地〉に組み込まれていた「私」を〈図〉化することで、自らを確立しました。しかし、いまや近代文学は自らが織り込まれている〈地〉から〈図〉を取り出すことができないのでしょうか。これは単に文学者の責任と言うよりも、学校制度を支えてきた、支えている私たちが〈学校〉を〈地〉化したまま、そこに埋もれている自らの輪郭を見ることができなくなっているからなのでしょう。もしかしたら、近代文学の消滅は学校の「力」なのかもしれないのです。

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