(4)消える教室

deschoolman2008-06-19


日露戦争のさなか、「遼陽の占領」の「万歳! 日本帝国万歳」の提灯行列の声を聞きながら、林清三(『田舎教師』の主人公の小学校教師)は肺病で死んでいきますが、物語は、彼の教え子で師範学校に行って教員になった女性が彼の墓の前で泣いているというところで終わっています。『田舎教師』では、ほとんど教室での清三の姿は登場せずに、貧しい惨めな小学校教員の生活が描かれています。ですから、この終わり方は、いささかとってつけたようなのですが、教室での教師─生徒関係が、現実の暗い生活とは別の物であること、学校を小説の舞台にするとき、そこに希望を見いだすという意識があることを示しています。島崎藤村の『破戒』は強烈な学校批判を内包しているといいましたが、「教室」の生徒と教員の関係はそれとは別なのです。丑松をやめさせないでくれ、と丑松の生徒たちは校長に嘆願に行きます。このときの校長の対応は次のように描かれます。
 

其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動でせう。』と言はれて、級長は何か弁解(いひわけ)を為ようとしたが、軈て涙ぐんで黙つて了つた。

 丑松のつとめる小学校のいわゆる「モデル」は飯山尋常小学校で、下宿先の蓮華寺は飯山の真宗寺だろうというので、それをあしざまに書いている、とりわけ「穢多」の教員がいたなどと書いたのはけしからんというので、飯山では、藤村の作品の舞台であることなど忘れてしまいたいようですが、こういう生徒を描いているではないか、などとは考えなかったんですね。それはともかく、ここでも教師─生徒関係の成立する教室は、いわば批判の対象ではないのです。むしろ、そこにこそ希望を見いだしているのです。丑松が被差別部落の出身であることを「教室」で生徒たちに告白したという設定の意味はそこにありましょう(解放教育のなかで、部落民宣言は必ず「教室」で行われたことに意味ともつながるのでしょう)。高等四年の級長は、校長に次のように言っているのです。

『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情(こゝろもち)を表白(いひあらは)した。何卒(どうか)して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令(たとへ)穢多であらうと、其様(そん)なことは厭(いと)はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。

 いわば教室は近代の実験場として、希望を語りうる場所として、さらにはその外の前近代の社会を批判しうる場所としてイメージされているのではないでしょうか。「学校」が立身出世の必須の場所として認知され、〈地〉になりかけている『ああ玉杯に花うけて』(1927)でも、街と権力者に対して校長・教員と生徒が一体になって対抗する姿が描かれています。もっともここでは、漱石や藤村にあった学校批判は消失しています。
 林清三が死んだ年、日露戦争が終わった年に、大阪の小学校教員軽部の息子として豹一は生まれたという設定になっているのが、織田作之助の『青春の逆説』(1941)です。軽部は、こんな風に描かれます。

お君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取り入るためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の驥尾に附して、日本橋筋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。

といったふうに、卑小な脇役としてえがかれ、豹一は、母の内職で中学に行きますが、その中学では映画を見に行ったというので停学処分になります。もはや、あの「教室」はなくなっています。

一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。

 三高にはいった主人公は、この学校のエリート主義にあわずに退学してしまいます(織田作之助も三高を退学していますが)。『青春の逆説』では、学校や先生や学生は、さまざまな風俗の一つとして描かれているに過ぎません。青春の希望や不安や期待がとどまるような場所としてではなく、街の風俗の一つなのです。母のお君が再婚した相手の高利貸は、豹一の学資をだしたりしません。妻や息子から家賃をとる吝嗇漢にとって学校はなんの意味もないところです。『青春の逆説』が批判するのは旧制中学や高校の生徒たちの鼻持ちならないエリート主義であって、それをも一つの不細工な風俗として描き出すことに意味があるので、学校批判によってなにか別の希望を見いだそうとするわけではありません。女学生紀代子とデートするときでも豹一は、貧しい生活のなかの母を考えてしまいます。

しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)

 近代文学は、延々と「家」や「家族」について書き続けてきたし、今でも書き続けています。恋愛小説はもちろん推理小説でも、母─子、あるいは父─子、夫─妻、恋人どうしなど、親密な関係を巡って書かれる作品は、飽きることを知りません。いわばずーっと主題であり続けています。ところが学校はそうではありません。家族はその解体が言われ続けてきましたが、作品は書かれ続け、学校は、時にその解体が話題になりはしても、いまや学校の改革は話題になっても解体などという人はありません。なのにフクションの世界から「学校」は影が薄くなっているような気がします。あの「教室」は作家たちの中から、また私たちの中から、消えてしまったのでしょうか? いや、そんなことはない、熱心な教師たちは、その「教室」のために生きているのだ、という声も聞こえてきます。それはそうだろうと思います。問題は、その場所がフクションの世界から消えていくことのほうにありましょう。新しい時代の息吹を創作家たちはその鋭い感性で、小説の主題にしてきました。だとすれば、作品から「教室」が消えていくのは、どんな世界の出現の予兆なのでしょうか?

写真は織田作之助
http://www.odasaku.com/oda-room.html より