(5)『風と光と二十の私と』

坂口安吾の書斎


 1925年から1年間、坂口安吾は世田谷下北沢の荏原尋常高等小学校の分教場の代用教員をしていました。坂口安吾20歳の時のことでした。五年生70名を担当したその時の経験は、1948年の『風と光と二十の私と』にあざやかに描かれています。
 彼は、この自伝的エッセイの最後に、「教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。」と結んでいます。いわば「優秀な」教員として充実した生活を送っていたことを、後年ふりかえってそのように述べているのです。
 彼の「先生」ぶりはこんなふうです。

〈先生の数が五人しかない。党派も有りようがない。それに分教場のことで、主任といっても校長とは違うから、そう責任は感じておらず、第一非常に無責任な、教育事業などに何の情熱もない男だ。自分自身が教室をほったらかして、有力者の縁談などで東奔西走しているから、教育という仕事に就ては誰に向っても一言半句も言うことができないので、私は音楽とソロバンができないから、そういうものをぬきにして勝手な時間表をつくっても文句はいわず、ただ稀れに、有力者の子供を大事にしてくれということだけ、ほのめかした。然し私はそういうことにこだわる必要はなかったので、私は子供をみんな可愛がっていたから、それ以上どうする必要も感じていなかった。
 特に主任が私に言ったのは荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった。この子は然し本来よい子供で、時々いたずらをして私に怒られたが、怒られる理由をよく知っているので、私に怒られて許されると却って安心するのであった。あるとき、この子供が、先生は僕ばかり叱る、といって泣きだした。そうじゃない。本当は私に甘えている我がままなのだ。へえ、そうかい。俺はお前だけ特別叱るかい。そう云って私が笑いだしたら、すぐ泣きやんで自分も笑いだした。私と子供とのこういうつながりは、主任には分らなかった。〉

 元教員が、自分の教育実践を自慢げに語っているような文章と少しもちがわないようにも見えます。なぜ教員のような仕事が自分にできたのか、彼は自己分析します。「誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないか」と。そこから人は「堕落」していくのだろうと。「私は当時まったく超然居士で、怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、つまり行雲流水の如く生きようと」心がけていたからだと。「先生」はいわば老成していないとできない仕事なのだということでしょう。「老成」という言葉を坂口安吾は、決していい意味で使ってはいません。「老成の空虚」に、その時自分は気づかないままに、教員の生活に満足してしまっていたという風に総括しているのです。

〈牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。
私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、
「先生、叱っちゃ、いや」
彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。
「ああ、叱らない」
「かんべんしてくれる」
「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」
彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。
 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。〉


 坂口安吾は、発達論の常識に反して、青年から成人に至る一時期に、後の大人時代にはない「成熟期」に達することがあるのではないか、といっています。若い教師や学生たちの発言の中に、私が何十年の経験の中でやっと到達できたと思ったことを、いとも易々と発言しているのを時に耳にすることがありますから、そういう風にも考えられるなと思いました。しかし同時に、実のところ「老成」を達成しているのは「教育」という仕事や「教育」という考え方が、青年を「老成」させていくのかもしれないのです。
 坂口安吾は、『教祖の文学』(1947年6月「新潮 第四四巻第六号」)で、小林秀雄を徹底的に批判しています。

〈だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退ッ引きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有る。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。
 生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。
……小説は十九世紀で終つたといふ、こゝに於いて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ。〉

 自分の人生を、喜んだり悲しんだり苦しみながらこしらえるのではなく、本質を見ること、見抜くこと、あるいは人生はこういうものだと諭すこと、先例やお手本にならって「芸術作品」の鑑定ができるようになること。そういうことができる小林秀雄はいってみれば「老成」「成熟」した「先生」といえるかもしれません。「老成の実際の空虚」を、安吾小林秀雄の評論に見ていたのでした。
 安吾が『風と光と二十の私と』で展開しているのは、実のところ近代学校批判なのではないでしょうか。しかしそれは直接的な批判の仕方ではなかったのです。物語的に語られるところは、立派な教育実践記録とも読めます。しかしそうした自らの実践の傍らに、それを可能にした「老成」の「空虚」を並べるのです。安吾は「教育」や「学校」について積極的に語っているのではありません。「文学」というものは、実人生に根を下ろして生成するのであって、文学作品の「鑑賞」のなかで悟りを開くことを目的にしているわけではないと言っています。
 『文学のふるさと』(現代文學 第4巻第6号 1941年8月号)で、安吾芥川龍之介を引きながら次のように「突き放される」経験が文学のふるさとだと説いています。「学び」のふるさとももしかすると、こうした「突き放される」経験のなかにその原型があったのに、「学校」制度の「改革」によって、「わかる授業」の展開のなかで、すっかり消えてしまったのかもしれません。ちょうど、文学が文学教育や国語教育の発展の中で衰退し、「無常ということ」の字句の解釈が入試問題になり、文芸時評地盤沈下していったように。

〈 晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
 芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
 さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
 この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
 ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。〉

*引用はすべて青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
写真は
http://f.hatena.ne.jp/hugo-sb/20070411140626
より。