(4)『大導寺信輔の半生』

河童(芥川龍之介)


 日本の近代文学作家のなかには教員を経験した人がかなりたくさんいるように思います。夏目漱石島崎藤村などは正規の教員でしたが、石川啄木をはじめとして「代用教員」まで含めると、石牟礼道子宇野千代三浦綾子宮尾登美子坂口安吾といった人たちも教員経験者です。作家ではありませんが小津安二郎も代用教員経験者です。
 近代文学を生み出し、支えてきた人たちは学校経験をどのように考えてきたのだろうか、というのがこの雑文のひとつのテーマですが、これほどたくさんの作家たち(もちろん調べきれていないのでまだたくさんいると思います)が教員経験者であることは意外でした。生徒経験者はまあ、ほとんどすべての作家たちでしょうから、生徒経験を作品の中に生かしている作家はもちろんたくさんいるでしょう。だとすれば、近代学校経験の検証に文学作品は「資料」として十分に活用できるのではないかと考えます。
 小説などはフィクションですから、これを「史料」とすることは出来ないでしょうが、SFとか空想的な童話とかでない限り、文学作品はその時代の経験を、個別的な「史料」よりもたくさんの読者を獲得したといういわば時代のフィルターをかけられてきたわけですから、言ってみれば「統計的具体」の表現として扱うことができるのではないでしょうか。勿論、小説作品などの文芸作品がその時代の思想や文化を表象したものとして、文学史や思想史で扱われてきたでしょう。それとは別のスタンスから「近代学校史資料としての近代文学作品」にアプローチできるのではと考えています。

 そこで、今回は芥川龍之介の作品を取り上げてみたいと思います。『羅生門』をはじめ芥川の作品は高校の教科書に取り上げられ、学校教育の教材との親和性は大変高いのですが、彼の別の作品からは「近代」や近代学校を批判したり忌避したりする雰囲気がにじみ出しています。芥川もまた教員経験者ですから、彼の作品には生徒経験と教員経験との二つが生きています。もっとも彼は「学校」を経験したというより、「学校」経験をとおして「近代」の虚構を「ぼんやりと」指摘していた、と言ってもいいのではないかと思います。もしかしたら近代学校批判の作家という位置づけも可能なのでないかとひそかに思っています。
 もっともこういう議論は、芥川研究のなかでは既にたくさん言われているのかもしれません。ネットで検索したら、たいがい研究動向の一角くらいは引っかかってくるのですが、これがあまり見当たりませんでした。仕方がないので独断と偏見で書いてみたいと思います。お気付きの諸賢にアドバイスをいただければ幸いです。
 芥川は1892(明治25)年3月1日、東京市京橋区入船町で生まれています。
http://yushodo.co.jp/pinus/62/press/index.html
彼は自分が生まれた東京の下町に愛着を感じつづけていました。穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのがならび、ドブからは悪臭があがり、いつも泥んこの道。こんな本所界隈に「自然の美しさ」を感じ取る大導寺信輔は、芥川自身だと考えて差し支えないだろうとおもいます。芥川は江東尋常小学校から府立第三中学校、第一高等学校、東京帝国大学英文科と進学していますから、下町の牛乳屋のせがれの通常のコースではなかったのです。

 学校も亦信輔には薄暗い記憶ばかり残している。彼は大学に在学中、ノオトもとらずに出席した二三の講義を除きさえすれば、どう言う学校の授業にも興味を感じたことは一度もなかった。が、中学から高等学校、高等学校から大学と幾つかの学校を通り抜けることは僅かに貧困を脱出するたった一つの救命袋だった。尤も信輔は中学時代にはこう言う事実を認めなかった。少くともはっきりとは認めなかった。しかし中学を卒業する頃から、貧困の脅威は曇天のように信輔の心を圧しはじめた。彼は大学や高等学校にいる時、何度も廃学を計画した。けれどもこの貧困の脅威はその度に薄暗い将来を示し、無造作に実行を不可能にした。彼は勿論学校を憎んだ。殊に拘束の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響を伝えたであろう。如何に又グラウンドのポプラアは憂欝な色に茂っていたであろう。信輔は其処に西洋歴史のデエトを、実験もせぬ化学の方程式を、欧米の一都市の住民の数を、 ―― あらゆる無用の小智識を学んだ。それは多少の努力さえすれば、必しも苦しい仕事ではなかった。が、無用の小智識と言う事実をも忘れるのは困難だった。ドストエフスキイは「死人の家」の中にたとえば第一のバケツの水をまず第二のバケツヘ移し、更に又第二のバケツの水を第一のバケツヘ移すと言うように、無用の労役を強いられた囚徒の自殺することを語っている。信輔は鼠色の校舎の中に、 ―― 丈の高いポプラアの戦ぎの中にこう言う囚徒の経験する精神的苦痛を経験した。(『大導寺信輔の半生』)

 芥川の学校嫌いは観念的な学校批判ではなかったのは『毛利先生』(大正七年十二月)という作品に描かれている東京の中学校の代用教員の描き方をみれば了解できましょう。英語の授業を担当していた毛利先生は生徒たちから日本語の語意の貧しさを笑われ、ばかにされていた。卒業後、7、8年して、偶然、喫茶店で従業員に英語を教えている毛利先生を目撃する。

ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を ―― 先生の健気な人格を始めて髣髴し得たような心もちがする。もし生れながらの教育家と云うものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえども止める事は出来ない。もし強いて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛な活力も即座に萎微してしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教えると云うその興味に促されて、わざわざ独りこのカッフェへ一杯の珈琲を啜りに来る。勿論それはあの給仕頭などに、暇つぶしを以て目さるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためと嘲ったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤謬であった。思えばこの暇つぶしと云い生活のためと云う、世間の俗悪な解釈のために、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であろう。元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾とあの山高帽とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ましく、不退転の訳読を続けて行った。(『毛利先生』)

 芥川にとって学校という構築物の中で演じられるあらゆることが、作り物のように感じられたのではないでしょうか。「先生」もそうした枠の中でだけ見てしまう。そういう人や物に対する限定された視線を芥川は「近代」が構築した仮物のように思えたのではないでしょうか。芥川の作品には近代以前に題材を取ったものがかなりあります。前近代の人々の生活の方に彼は親近感を持っていたのだと思います。『一塊の土』(大正十二年)は、近代に取材はしているものの前近代の農村の働き者の女性とその姑の葛藤を描いています。いわば前近代の人生を、その苦楽を情感を込めて描いているのです。一方で、芥川がえがく「近代人」は醜悪な姿で登場します。『保吉の手帳から』(大正十二年)には、勤め先の海軍の主計官がレストランの窓から乞食の少年に「ワンといえ」と要求して残り物を投げている姿が映されている。芥川の反感は、給料の支給の窓口で、その手続きに手間取っているその主計官に保吉が「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」といわせているところに明確に表現されています。上流階級の不遜な態度にたいする憎悪は、「或男爵の長男」が江ノ島に潜りにきている少年たちに銅銭を海に投げ込んで拾わせに行く場面のところにも明確に現れています(『大導寺信輔の半生』)。
 台頭する無産階級運動、プロレタリア文学派の活動。そうした時代の流れの中で芥川は「近代」の価値のほうに意味を見いだすことはできなかったから、彼は無産階級運動の声に抗する基盤を持たなかったのです。「近代」の醜悪さに憎悪を抱きながら、それと闘う彼自身の根拠を持つことができなかったのだろうと思います。ニーチェの熱心な読者だった芥川も「反近代」ののろしを上げることはかなわなかったのです。芥川の自殺の原因は「ぼんやりした不安」だと言われてきました。『大導寺信輔の半生』の終わりの方にこんな記述があります。

纔かに彼の知った上流階級の青年には、 ―― 時には中流上層階級の青年にも妙に他人らしい憎悪を感じた。彼等の或ものは怠惰だった。彼等の或ものは臆病だった。又彼等の或ものは官能主義の奴隷だった。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の為ばかりではなかった。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの為だった。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでいた。

 この「何か」とは何でしょう。私は「近代」そのものだったのではないかと思います。自分や中流上流階級の或るものたちが「彼自身意識せずに」憎んでいたもの。それが明確な形を結ばなかったこと。これが、芥川だけではなくこの時代の「ぼんやりした不安」を作り上げたのものだったのではないでしょうか。
 芥川がこうした「反近代」の自覚を明確にできなかったのは、彼自身が1916年から2年間、海軍機関学校で英語の嘱託教授をやったことで、「学校」というものが形成する「近代」の巨大な波に半ば飲み込まれていたからではないかと推測してみます。
 海軍機関学校をやめ、1918年大阪毎日新聞に入社しますが、その時の「入社の辞」(大正八年)に「不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来の海軍将校を陶鋳すべき教育家として、いくら己惚れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺出来ない点だけでも、明に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があつたにしても、一家眷属の口が乾上る惧がある以上、予は怪しげな語学の資本を運転させて、どこまでも教育家らしい店構へを張りつづける覚悟でゐた。」と芥川は書いています。芥川には「毛利先生」という視線があったがために「仮」の構築物たる学校の教師であってもよいと考えたのかもしれません。しかし、芥川にとって「文学」と現実の近代社会とは別物と意識されていたのではないでしょうか。というより経験してきた近代に敵対するものとして「文学」はそれを生きる価値があるという風に考えてきたのではないでしょうか。私たちは近代と文学は手に手をとって歩んできたと「近代文学史」の教えに添って想像しがちです。芥川の時代にも当然、文学教育が浸透していったことでしょう。芥川は「本」によって自己形成をしてきたという強い自覚がありました。それは学校によってではなくです。ですから芥川は「本」「文学」の可能性と「学校」を対置していたのではないでしょうか。昭和2年に「遺稿」となった「暗中問答」という原稿があります。

或声 しかしお前は資産を持つてゐたらう?
僕 僕の資産は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。
或声 しかしお前は家を持つてゐる。それから近代文芸読本の……
僕 あの家の棟木は僕には重たい。近代文芸読本の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰つたのは四五百円だから。
或声 しかしお前はあの読本の編者だ。それだけでもお前は恥ぢなければならぬ。
僕 何を僕に恥ぢろと云ふのだ?
或声 お前は教育家の仲間入りをした。
僕 それは嘘だ。教育家こそ僕等の仲間入りをしてゐる。僕はその仕事を取り戻したのだ。

『近代日本文芸読本』は芥川が編者になって大正14年、興文社から出版された5巻本です。
http://www.nihontosho.co.jp/isbn/ISBN4-8205-0356-1.htm
 私の勝手な想像の根拠はこれしかありません。芥川にとって文学と学校は絶対矛盾の存在だったのではないでしょうか。

写真は
http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/kpteigi.htmより

追記
 写真は、芥川が描いた河童です。作品『河童』(昭和2年)には「近代教(=生活教)」を信奉する河童社会が描かれています。「近代」にたいする芥川のスタンスがうかがえる作品になっていると思います。