『白い壁』

本庄睦男


 昭和のはじめのころ、東京の下町の尋常小学校。鉄筋コンクリートの校舎が城砦のように聳え立っている。本庄陸男はその下町の小学校の教員経験を、後に『白い壁』(1934年)という小説に書いています。彼が編集長だった『人民文庫』が1938年廃刊に追いやられ、彼は『石狩川』を書いて、1939年には結核で死んでしまいます。
 同じ1939年の1月、国分一太郎は南支派遣軍報道班員として中国に軍属として渡り、1940年に『戦地の子供』という本を出版しています。国分は中国広東の子供たちに、「いまだ日本軍の慈愛をしらぬ」重慶の子供たちへむけての「生活綴り方」を書かせ、その本に掲載しています。川村湊は「『戦地の子供』は、国分一太郎の生活綴り方の論理を裏切っている。それは単に転向とか戦争協力といったことだけではない。内発的で、真実の生活を見ようという生活綴り方の精神そのものが損なわれている。あるいは、「生活綴り方」とは結局は現実の社会や政治的なイデオロギーの検閲によって、その自発性を扼殺されるというよりは、自発性や内発性そのものを仮構的に枠取られてしまうものなのだろうか」(『作文の中の大日本帝国』2000 岩波)と「書かせること」にたいする根源的な疑問を投げかけています。
 一方、本庄陸男の『白い壁』は検閲による伏せ字にもかかわらず、小学校の「低能児教室」での子供と教師の格闘を丹念に描くことで「教室」が「社会」と地続きであることを描き出しています。

「儲かるもんか!」川上忠一は眉根をしかめてそれを即座に否定した。「発動機に押されっちゃって、からっきし仕事がまわってこねえんだよ、遊んでる日がうんとあらあ、遊んでてもしかたがねえんだけんど、何しろ仕事がねえんだからなあ、父(ちゃん)だって辛(つら)いし、あたいだって――」そう雄弁になってぶちまけだした子供の言葉を、杉本はじいっと聞いていることができなくなった。彼は埃と床油の臭気が立て籠めていることに思いあたり廻転窓の綱をがちゃりと曳いた。夕映えの反射がそこで折れて塗板の上をあかるくした。「先生えあたいなんかはなあ、まちの子供みたいにあそんじゃいられねえよ、おっ母(かあ)の畜生が逃げっちゃったんだ、そうよ、船は儲からねえからよ。儲からねえたって言ったって……」教師は照れかくしに教卓のまわりを歩き、ぱっぱっと煙草をふかしつづけた。落第坊主即低能と推定されて自分の手に渡されたこの痩せこけた子供が、こんなに淀みなく胸にひびく言葉をまくしたてるのだ。よしそれならば――と杉本は真赤な顔を子供に向けなおし、まだわめきつづけようとする口を強制的にでも止めてしまおうとした。
「よし!」杉本はどしんと床を踏みならした。「よし! もうわかった、それならば――」彼のそのいきおいにはっと落第生に変化してしまった川上忠一は、亀の子のように首をすくめぺろりと細い舌を出した。しまった――と思ったがすでにおそいのである。そして彼自身もその刹那から職業的な教師にかえったのも知らずに、「それではなあ川上、これから先生が訊ねることはどんどん返事をしてくれよ」と言いつづけていた。それから彼は測定用紙をひろげ、三歳程度の設問をもったいぶって拾いだしていた。
「コノ茶碗ヲアノ机ノ上ニオイテ、ソノ机ノ上ノ窓ヲ閉メ、椅子ノ上ノ本ヲココニ持ッテクル――んだ」
 おそろしく生まじめな眼を輝かした教師に、川上忠一はへへら笑いを見せて簡単にその動作をやってのけた。
「その調子!」と杉本は歓声をあげた、その調子――そして、このもったいぶった検査を次々に無意味なものにたたきこわしてしまえ。彼はそう思って、「ではその次だ」と呶鳴った。
「モシオ前ガ何カ他人ノ物ヲコワシタトキニハ、オ前ハドウシナケレバナランカ?」
「しち面倒くせえ、どぶん中に捨てっちまわあ――」
「え? 何? なに?」杉本はすでに掲示されている正答の「スグ詫ビマス」を予期していたのだった。だがこの子供の返答は設定された軌道をくるりと逆行した。杉本は背負い投げを喰わされたようにどきまぎした。

 担任の杉本は低能児とされて校長に連れてこられた編入生の知能検査をしているのです。杉本は低能児学級の担任なのです。低能児学級とは今日の養護学級とも違うようです。下記は昭和3年のある小学校の学級編成です。

第1学年 イロハの3学級 児童の生年月日別 各学級 男女合併
        イ組 最年少者 虚弱児、劣等児 促進学級 52名
第2学年 イロハの3学級 イ組 虚劣の特別学級 40名
       後の2学級 能力平分の男女学級
第3学年 イロハニの4学級
        イ組 養護学級 34名 校医診察の結果
        ロ組 促進学級 31名 知能検査により
         他の2学級性別により男と女の編成
第4学年 男、女の2学級 性別による編成
第5学年 男、男女、女の3学級 性別 による
第6学年 男、男女、女の3学級 性別による
高等1年 男、男女、女の3学級 性別による
高等2年 男、男女、女の3学級 性別による
 5年以上 算術科のみ、優、中、劣の3組に毎時編成替え能力別  劣等児、虚弱児救済の為の特別学級が4学級あり、能力別取り扱いを加味したものに算術科  編入児童は固定的なものでわはない。その児童の促進程度により随時他学級へ復帰しまた他学級より編入される者もあるという移動的のものである。

http://www.sikasenbey.or.jp/~ueshima/nararekisi4.html

 この「促進学級」には「知能検査」で相当多数の子供が入れられているのがわかります。上記の資料では「ドルトンプランによる大正新教育の実践という土壌の上に様々な成果が昭和初期に花咲いていく」例としてこの学級編成があげられているのです。
 寺本晃久によれば、1887(明20)年には45.0%だった就学率が、1900(明33)年には81.5%にまで向上する。そうした就学率の向上を背景に、学業成績の劣る「劣等児」「低能児」が教育問題として明治30〜40年代には浮上してくるという。知的障害というより学力が劣っていると学校の中で認定して、その劣等児対策研究が、学校の中でその「個人」を対象に「研究」がすすめられ、それらの子ども達の施設が成立してくるのであって、その逆ではなかったと寺本は言っています。(「「低能」概念の発生と「低能児」施設 ――明治・大正期における――」『年報社会学論集』第14号,2001年6月発行,関東社会学会,pp15-26)
http://www.arsvi.com/0w/ta01/010600.htm
 こうした学級編成を「科学的」なものにしていたのが知能検査だったわけです。その科学はじつのところ「学校」とりわけ「教室」という空間の中に囲い込まれた「子供」をクライアントとして誕生した「科学」であり、その子供が家庭や地域の中で生きているということは検査の圏外におかれたのでした。まさに「教室」が知能検査という「科学的方法」を生み出したのでした。
 『白い壁』は、そうした近代学校の学級編成の虚構を、自然主義リアリズムという手法で見事にあぶり出していたといえましょう。
 生活綴り方は、子どもたちの生活を「教室」でつづらせ、生活の真実に向き合うことを進めていったのですが、このリアリズムを恐れた政府によって弾圧され収束していったという見方がありますが、川村湊はそれに反対します。綴り方教育は文部省によって取り入れられ、「銃後で綴られる慰問文」として引き継がれたのだと。たとえ子ども達が戦死した父の骨を迎えにいくという「暗い」ものであれ、「家族」のあり方がリアルに描かれていれば、「家族」を守るという使命感を兵隊さん達に喚起できたのだという。川村は生活経験主義的な実践の陥穽を指摘しています。

戦前の生活綴り方が生活指導や生活改善の傾向を強め、それは典型的には、やがて文部省の国民学校令の施行規則に示される「綴リ方ニオイテハ、児童ノ生活ヲ中心トシテ、事象ノ見方、考エ方ニツキ適正ナル指導ヲシ」という考え方に結びついていった。つまり、生活綴り方の生活経験主義的な内発性、自発性は、「適正ナル指導」によって導かれる生活指導や道徳教育の結果を、強制や強要ではなく、それがあたかも自分たちの内部から自発的に、あるいは内発的に出てきたかのように受け止めるということになってしまったのである。「書かせる」ことによる支配ということを、生活綴り方を指導する教師たちはほとんど自覚していなかった。綴り方、作文、感想文、反省文、自己批判文……自発的、内発的に書かれるべき「作文」こそが、もっとも教育的な支配の道具として有効であることを作文=綴り方の教師たちは知っていた。そして、そのことの無自覚さ、無防備さは、簡単に”自発的に文章を書くこと”を、戦争の総動員体制に奉仕するものとしてしまったのである。(『作文の中の大日本帝国』)

 
 近代の学問、とりわけ医学や心理学などの「成果」が「教室」に直接に入り込み、学級編成や教師の視線を変容させてきました。その意味で近代科学は境界なしに教室に侵入したのです。では「文学」などの芸術はどうだったのでしょうか。近代文学は「教室」にどんな改変をもたらしたのでしょうか。それとも近代文学は「教室」の外にしかなかったのでしょうか。生活綴り方は「文学教育」ではなく「生活指導」や「道徳教育」だったのだとすれば。

写真は下記より
http://www.choko.sakura.ne.jp/mt_esra/archives/2006/10/post_142.html