『雲は天才である』

渋民尋常高等小学校

 1906年4月石川啄木は故郷渋民村の尋常小学校の代用教員となります。このときの経験をもとに『雲は天才である』は書かれています。『足跡』『葉書』などにも尋常小学校の様子が映されています。『雲は天才である』(明治39年)に登場する代用教員、新田耕助(あらたこうすけ)の行動は、ほぼ石川啄木の学校での行動だと思って差し支えないことは、「渋民日記」を読めば想像がつきます。新田耕助は課外授業を自らはじめ、英語と外国史を担当外の高等科の子どもたちに教えています。

實際は、自分の有つて居る一切の知識、(知識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の經驗、一切の思想――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭(くわせん)となつて迸しる。的なきに箭を放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齡の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つばかりに紅血の油を盛つた青春の火盞ではないか。

 早い話がアジテーションをやっているのですね。自分が教員をするのは「単に読本や算術や体操を教えたいのではなく、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたいためである」(「渋民日記」『啄木全集第5巻』p.95)と言って、文部省の教授細目など「教育の仮面」にすぎないと言い切っています。

余は詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまでみえた一悪童が、今や日一日に自分にいふ通りになってきたことである。(「渋民日記」p.99)

 『雲は天才である』に新田耕助が作詞作曲した歌を、校歌として子どもたちにおしえ、それが自然に拡がって、校長たちの激怒をよび、それに立ち向かい勝利する場面があります。それはフィクションであるかもしれませんが、「鬱勃たる革命的精神」でフランス革命を教えていた啄木のアジテーション教室から生まれたフィクションであるにちがいありません。

ルーソーは歐羅巴中に響く喇叭を吹いた。コルシカ島はナポレオンの生れた處だ。バイロンといふ人があつた。トルストイは生きて居る。ゴルキーが以前放浪者(ごろつき)で、今肺病患者である。露西亞は日本より豪い。我々はまだ年が若い。血のない人間は何處に居るか。(『雲は天才である』)

 代用教員林清三(『田舎教師田山花袋)は日露戦争勝利の提灯行列から聞こえる「万歳! 日本帝国万歳」をききながら喜びを顔にたたえて、結核で死んでいきます。同じ頃、啄木は「勝った日本よりも、負けた露西亜のほうが豪い」(「渋民日記」p.118)と教室で教えていたのです。
 しかしながら、近代人石川啄木はまた、管理教育の元祖でもあったことは、『足跡』をよめば明らかです。啓蒙精神と革命的精神と教育思想とりわけ管理教育は、じつはそれほど矛盾するものでないことを啄木の代用教員小説は証しているように思います。


写真はhttp://blog.livedoor.jp/chocotto_tax/より
渋民尋常高等小学校