『千曲川のスケッチ』

小諸城趾から見下ろした千曲川

 1899年(明治32年)から島崎藤村は小諸義塾の教師を6年間勤めました。この時代の藤村の教員生活が『千曲川のスケッチ』からうかがうことができます。書かれたのは明治末年から大正初年です。雑誌『中学世界』に連載したものでした。夏目漱石の『坊ちゃん』は1906年明治39年)に出版されますが、漱石愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)の教師生活を始めたのは1895年(明治28年)ですから、漱石の中学教員生活よりも少し後のことになります。しかし、この両者の「田舎」にたいする向き合い方はまるでちがっていたように思います。少なくとも『坊ちゃん』と『千曲川のスケッチ』を比べる限り。『坊ちゃん』は

 ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。

といった感じですから、はなからこの地域で生きている人たちを見る気がない(小説の坊ちゃんがですが)。ところが島崎藤村は、

私は信州の百姓の中へ行って種々なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択ぶように成った。この書の主なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。

 小諸での田舎教員生活が、言文一致の小説を書くきっかけにもなったのだといっているのです。いまでは何でもない言文一致の文章であっても「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢に横たわる基礎工事であったと私には思われる。わたしがこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった」と藤村は書いています。そうした文章の生成には藤村が信州の小諸で過ごし、そこの子どもたちや農民たちの生活、さらには自然をつぶさに観察した成果でもあったのです。農家の人たちから野山の植物について教わり、自分でも農業をしてみたり、彼は農家の子弟たちの家庭訪問もよくやっているのです。
 藤村が何を見ているか、彼の見事な文章で確認してみてください。だいぶ長いですが。

 私達の教室は八重桜の樹で囲繞されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れていた。
 ここでは男女が烈しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
 Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠の間の平かな道も好きだ。
 私は盛んな青麦の香を嗅ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧しつけられるような心持に成る。可怖(おそろ)しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃な家族の人達が私の心を惹いた。
 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側から直に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛(が飼われている。
 Sの兄は大きなバケツを提げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲めて、新鮮な牛乳を罎詰にする仕度をした。暫時、私は立って眺めていた。
 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々な話を聞いた。牛の性質によって温順しく乳を搾らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西の入の牧場なぞが設けてあることを聞いた。
 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。

  では、藤村は教室でどんな授業をしたのでしょうか。

秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦の話をした。
私は『釈迦譜』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲を読むように写出してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。

 ただのお説教のように聞こえるでしょうか。当時の中学生は地方のエリートでもありました。その彼らに「あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込」を説く藤村は間違いなく、否定の精神を内面化させた「近代人」として生徒たちに語りかけているのです。そうした近代精神と、信州の田舎びとたちにやどる伝統的な強さを出会わせる場所に藤村は立つことができたのだろうと思います。
 
 日本の近代文学は終わった、と柄谷行人は言っています。近代学校は近代文学とともに始まっています。では近代学校も終わったのでしょうか。終わったとしても、では今ある学校は近代学校とどのようにちがってきているのでしょうか。日本の「終わった」近代文学のなかに日本の近代学校が保存されているのだとすれば、近代学校の原像をそこから抽出できるかもしれません。文学作品のなかの「教室」に焦点をあてて考えてみようと思います。

なお、文中の文学作品の引用は断らない限り下記からの引用です。以下同様です。
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
電子図書館
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/

写真は下記より
http://www.kimagure.jpn.org/kimagure/E_Komoro.html
小諸城趾から見下ろした千曲川