(1)地名が薄れる

『田舎教師』の学校跡

 おびただしい数の文学作品の中で、学校や生徒や教室、教員はどのように描かれてきただろうか。小説などで描かれた〈学校〉像をつなげていけば、描かれた学校史というか、イメージの中の学校史ができるのではないか。これは伝統的な教育史による学校史とどのように違ってくるのだろうか。教育史が使う資料にはなかなか見いだせない「生きている学校」「経験されてきた学校」あるいは「望ましい学校」などが、かなり明確に出てくるのではないか。さらにはそのようなものとして学校を描いた人たちの学校観・教育観が、そこからくみ取れるのではないか。そう考えて、何十年も遠ざかっていた文学作品を読み始めています。
 ところが、学校や先生や生徒が登場する文学作品は、それこそ無数にあるのです。町をあるけば先生にぶつかる、といわれますが、小説を読めば先生や生徒に出会う確率のほうが高そうです。このことは、資料がない、少ないというのに比べたらたいへん都合のいいことですが、反面、この作業が膨大な作業であることからくる困難につきあたります。
 小説や随筆、回想録といった文章は、書く人、書いた時代、などによって大きく影響を受けますし、そこに書かれている事実は記憶違いやフィクションが当然入っています。それらをどう考えるのかはこれから考えることにして、とにかく手当たり次第に文学作品を読み始めていって、そこで気がついたことをメモしていきたいと考えます。なにしろ小説を読むことをやめてしまってからたぶん二十年以上たちます。見当外れなところがたくさん出てくるはずです。どうかアドバイスをお願いします。なおこれは、前に書いていた「教室の中の近代」の続きのつもりです。

 最近の小説には具体性のある舞台が描かれないような気がします。それは「東京」とか「新宿駅」とかは言葉として出てくるとしても、それは「都会」とか「都心の大きな駅」といった一般名詞以上ではないようです。ところが島崎藤村田山花袋の作品は、実在の細かい地名が登場してきます。地図でいちいち確認して読めるほどです。夏目漱石の作品はそれほど具体的でないですが、描かれている舞台の固有性は明確です。たとえば、宗助とお米の住む借家は、次のような描き方をされています。

 魚勝と云う肴屋の前を通り越して、その五六軒先の露次とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖で、その左右に四五軒同じ構の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎らな杉垣の奥に、御家人でも住み古したと思われる、物寂た家も一つ地所のうちに混っていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち萱葺を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請に建て易えてしまった。宗助の家は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択(えら)んだのである。(『門』)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/785_14971.html

 芥川竜之介などは固有の地名を使っていそうもないかなと思いますが、そうでもないですね。例を挙げるときりがないのですが。

が、東京の町で不思議なのは、銀座通りに落ちている紙屑ばかりじゃありません。夜更けて乗る市内の電車でも、時々尋常の考に及ばない、妙な出来事に遇うものです。その中でも可笑しいのは人気のない町を行く赤電車や青電車が、乗る人もない停留場へちゃんと止まる事でしょう。これも前の紙屑同様、疑わしいと御思いになったら、今夜でもためして御覧なさい。同じ市内の電車でも、動坂線と巣鴨線と、この二つが多いそうですが、つい四五日前の晩も、私の乗った赤電車が、やはり乗降りのない停留場へぱったり止まってしまったのは、その動坂線の団子坂下です。しかも車掌がベルの綱へ手をかけながら、半ば往来の方へ体を出して、例のごとく「御乗りですか。」と声をかけたじゃありませんか。私は車掌台のすぐ近くにいましたから、すぐに窓から外を覗いて見ました。と、外は薄雲のかかった月の光が、朦朧と漂っているだけで、停留場の柱の下は勿論、両側の町家がことごとく戸を鎖した、真夜中の広い往来にも、さらに人間らしい影は見えません。(『妖婆』大正八年)

 いわゆる自然主義文学は「リアリズム」が信条でしょうから、固有の地名が登場し、後世、作品に描かれた土地に記念館などが建てられていたりします。こんなありふれたことは文学の世界では「常識」なのでしょうが、最近の小説を読みだしてびっくりしたのが、この固有の地名が出てこないこと、出てきてもそれは固有名とはとても思えない「一般性」でしかないことが私には一つの驚きだったからです。もちろん今まで読んだ数少ない小説作品でも、安部公房の作品は、いったいどこの話なのか、場所などは全然特定できないものでしたから、そういう作品もあるころはわかっていたつもりです。しかし、そういうカフカ的質の作品でもないのに、「どこの話なの?」ということが一向にわからない。「すみれは神奈川県の公立高校を卒業すると、東京都内にあるこぢんまりとした私立大学の文芸科に進んだ」なんて書き方からは固有性は感じられないのです。この「すみれ」の片思い恋人の「ぼく」は小学校の教員という設定で、小学生を遠足に連れて行き悪戦苦闘する場面も出てきますが、全然リアリティがない。もっともこの小説『スプートニクの恋人』(村上春樹 1999)の主題の一つがが、具体的な固有の領土から切れている現代人を描くことが目的なのは、最終章で、行方不明になった「すみれ」からの電話をうけた「ぼく」が、「すみれ」が「ここへ迎えに来て」といっても場所を聞かないという終わり方であるのでもわかりますが、しかしこれは意識的なのではなくて、もはや固有の土地に生きている人間を、書けなくなっているからではないでしょうか。
 こうした「脱領土化」は、近代の進行の中で一気に始まったのではないでしょう。大江健三郎の作品にでてくる「谷間」は、実在の地名ではなくても、その固有名性は濃厚でした。中上健次の「路地」もそうでした。固有名性をもった地名は、フォークナーの「ヨクナパトゥーファ」にあたる「筑豊」をえがいた井上光晴でもそうでした。しかし、これらの地名は、実在の地名ではありませんでした。架空にもかかわらず固有名性をそれらの作家たちは確保していたし、読者はその固有性を読み込んでいたのです。
 プロレタリア文学の作家たちの作品は、ほとんど固有の地名をつかって小説世界を構築していました。学生時代に黒島伝治の作品を読んで、小豆島まで行ったことを覚えていますが、この頃の作家の作品を読んでも、その作品の固有の土地というものがありませんから、文学散歩などというのは不可能になりましょう。そうではなくて、『スプートニクの恋人』を読んだ読者は、ギリシャに観光に行くでしょう。観光カタログとして近年の小説はよめるのでしょう。「すみれ」の女性の恋人ミュウは、たいへんなセレブですが、在日韓国人だそうです。ぜんぜん在日である必然性はないのに。のっている「車」は「ジャガー」。だいいいち「車」などとは書かない「セリカ」とか「ボルボ」とか書くわけです。パソコンとは書かない「パワーブック」とか書く。
 村上春樹の特長かいな? とおもっていたら、そうでもないらしい。「少し上だが、私に近い年齢だ。彼女の父親だろう。銀縁の眼鏡をかけている。それにヘリンボーンのジャケットにペーズリーのアスコットタイ。四十代後半の男が休日をより休日らしくするためには、そんな方法もあるのかもしれない。」(『テロリストのパラソル』藤原伊織 1995)
 どうも、長いこと小説を読まなかったせいで、浦島太郎的気分なのです。読者サービスなのかもしれないが、わたしには「脱領土化」した人類を、「再領土化」するモノたちを、これらの小説のなかに、ちりばめているように思えるのです。
 さて、私たちの「近代学校」は、藤村の時代から村上春樹の現在まで「学校」という同じ名称で語られてきました。しかし、私たちの感受性は「地名」に関してみても大きな変容を受けてきたのです。当然のことながら「モノ」にたいする感受性も変わってきているでしょう。近年の小説が、登場人物がいったいどこで、どんなところで生きているのか、それを描かなくなっているのは、あるいは私たちの目に見える風景が、均一化し、テレビなどですでにして「既視化」しているためだからなのでしょうか。作家は一から世界を構築しなくても、読者と「共有」できる「風景」が、すでにしてそこにあるからなのでしょうか。
 たとえば学校には名前があります。小学校の名前の多くは地名をつけられていました。京都の小学校はなぜ地名ではないのでしょう? 中学校に第一とか第二とかつけて地名をつけな場合の理由は何なのでしょう。命名は「社会」が学校に名付ける印です。だとすれば、「養護学校」が「支援学校」に変えられたのは、学校の変容を示すのではなくて、「社会」の深いところでの地殻変動を示しているといえないでしょうか。そうした社会の深いところでの変動を実は文学作品が、スナップ写真のように記録しているのではないかと思っています。



写真は下記

http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm

(7)『ああ玉杯に花うけて』

少年倶楽部表紙

 1920年代は大衆小説の興隆期であり、とりわけ20年代後半は少年小説の黄金時代だったと、池田浩士氏が指摘されています(『大衆小説の世界と反世界』1983 現代書館)。佐藤紅緑の『ああ玉杯に花うけて』は「少年倶楽部」の1927(昭和2)年5月号から1928(昭和3)年4月号に連載され、少年たちから圧倒的支持をえた人気連載でした。「少年倶楽部」は昭和2年30万部、昭和3年45万部と増え続け、昭和11年新年号は75万部を発行しているそうです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-kyoudo/1room/hyousi/hyoushitop.htm
 題名は、第一高等学校の校歌からとられたものということから推測できるように、小学校から中学校時代への少年群像を描き出しています。チビ公といわれる主人公千三は、成績優秀でも家が貧しくて中学校には行けず、家業の豆腐屋をやって一家を支えています。街の助役の息子の「生蕃」にいじめられたり、財産家の息子の光一に助けられたりしながら、私塾に通いはじめて、その塾に来ている一高の学生、安場に出会います。チビ公のまえで安場は歌い出します。「ああ玉杯に花うけて、緑酒に月の影やどし、治安の夢にふけりたる、栄華(えいが)の巷低く見て、向ヶ岡にそそり立つ、・・・・・」それを聞きながらチビ公は涙ぐみますが、安場は「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と貧乏生活の中で、塾の先生に導かれながら一高に入った体験を話します。
 田舎の少年たちに、この小説は「立身出世」の階梯としての「学校」の存在を強く印象づける物だったようです。
 中学生たちは学外で派手に勢力争いの喧嘩もすれば、学校内で集団カンニングをしますが、学校の教師集団は、そういう生徒指導を熱心にやっているふうもなく、模範学生の光一が、喧嘩やカンニングを批判したり解決したりしていくというふうに描かれます。生蕃といわれた助役の息子が、学校での暴力のせいで退学になり、親が権力をつかって中学の校長を配転させる場面が設定され、街の「悪」に生徒と学校が一体になって抵抗する姿が描かれます。ここでは学校(モデルは旧制浦和中学、現埼玉県立浦和高等学校)の校長・教員と生徒たちとの「共同性」が完璧に成立しています。学校は、世間の俗悪なるものに敢然と立ち向かう理想に燃えた英雄主義、エリート主義の養成所として機能しています。そうした少年の立身出世の理想主義が、貧富の差への不満を解消する機能をはたします。
 このエリート主義的理想主義が、見事に皇国史観と結びついている様子もはっきりと描かれます。この作品自体が大衆文学の興隆の中にあったにも係わらず、社会主義思想の流れを批判し、「英雄」を賛美する光一の演説を上手に配置します。
 いってみれば下記の演説は、旧制高校帝国大学のエリート主義のイデオロギーとして、貧しさのために中学にも行けずに豆腐屋の天秤棒を担ぐ少年にも機能させているのです。ここに描かれている「学校」は、まちがいなく現在の私たちが経験している学校とは、全く別物なのだろうと思います。それにしてもこの小説に描かれる「学校」は見事に機能していた時代の雰囲気を遺憾なく発揮しているだろうと思います。

〈「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりをなし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢よばわりをなす、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府をのろい、人は親をのろい、妻は良人をのろう、そもそもそれははたして正しきことであるか、思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。『首領がほしい』『私達を指導してくれる人がほしい』『レーニンがほしい』『ムッソリーニがほしい』『ナポレオンがほしい』と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもって自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだか、シーザーにあらずんばブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、源にあらずんば平であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄いでよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英雄は活動写真の近藤勇ではない、国定忠治ではない、鼠小僧次郎吉ではない、しかもまた尊氏、清盛、頼朝の類ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀がなくとも、学校を落第しても、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、この故にぼくはこういいたい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」〉

(6)『防雪林』

小林多喜二


 1929年『蟹工船』を発表した小林多喜二は、北海道拓殖銀行を解雇され、1930年に上京。治安維持法違反容疑で5か月間収監されます。翌1931年に日本共産党入党し、この年の12月、以下のような文章を書いています。その全文を掲げておきます。

〈先生。
 私は今日から休ませてもらいます。みんながイジめるし、馬鹿にするし、じゅ業料もおさめられないし、それに前から出すことにしてあった戦争のお金も出せないからです。先生も知っているように、私は誰よりもウンと勉強して偉くなりたいと思っていましたが、吉本さんや平賀さんまで、戦争のお金も出さないようなものはモウ友だちにはしてやらないと云うんです。――吉本さんや平賀さんまで遊んでくれなかったら、学校はじごくみたいなものです。
 先生。私はどんなに戦争のお金を出したいと思ってるか分りません。しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです。それだのに、お父さんにお金のことなんか云えますか。でも、みんなが、み国のためだというのでこの前、ほんとうに思い切って、お父さんに話してみました。そしたら、お父さんはしばらく考えていましたが、とッてもこわい顔をして、み国のためッてどういう事だか、先生にきいてこいと云うんです。後で、男のお父さんが涙をポロポロこぼして、あしたからコジキをしなければ、モウ食って行けなくなった、それに私もつれて行くッて云うんです。
 先生。
 お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみたいな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました。――先生はふだんから、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと云っていましたね。それだのに、どうして戦争はしてもいいんですか。
 先生、お父さんが可哀そうですから、どうか一日も早く戦争なんかやめるようにして下さい。そしたら、お父さんやみんながらくになります。戦争が長くなればなるほどかゝりも多くなるし、みんながモット/\たべられなくなって、日本もきっとロシヤみたいになる、とお父さんが云っています。
 先生。私は戦争のお金を出さなくてもいゝようにならなければ、みんなにいじめられますから、どうしても学校には行けません。お願いします。一日も早く戦争をやめさせて下さい。こゝの長屋ではモウ一月も仕事がなければ、みんなで役場へ出かけて行くと云っています。そうすれば、きっと日本もロシアみたいになります。
 どうぞ、お願いします。
 この手紙を、私のところへよく話しにくる或る小学教師が持って来た。高等科一年の級長の書いたものだそうである。原文のまゝである。――私はこれを読んで、もう一息だと思った。然しこの級長はこれから打ち当って行く生活からその本当のことを知るだろうと考えた。〉(『級長の願い』「東京パック」1932(昭和7)年2月号)

 
 こういう「生徒の手紙」やそれを持ってきたという「或る小学校教師」が実在していたかどうかは別にして、多喜二が学校の教員ならびに学校にたいして全否定的イメージを抱いてはいないらしいことは、この文章や、小説『防雪林』に登場する校長の描きようを見てもわかります。
 1926年からはじまった北海道の富良野農場での小作人たちの地代減額闘争は翌春には勝利していました。多喜二は1927年から翌年にかけて、石狩の平原に生きる貧農たちの、対地主闘争を『防雪林』に描いています。そのなかで、村の小学校の校長を次のように描きます。

〈小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
 源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。〉

 地主に小作料の減額を要求するための寄合は、小学校で開かれます。

〈話がかうしてゐるうちに纏つて行つた。源吉は誰からとなく、校長先生が裏に廻つてゐる、といふ事をきいた。所が、同じ村のある百姓が、地主のために、立退きをせまられてゐるといふことが出來上つてから、急にさういふことが積極的になつた。
 川向ひから、若い男がやつてきた。自分の方も一緒にやつた方が、地主に當るにも都合がいゝといふことを云つた。日を決めて、一度、小學校に集つて、其處で、どうするか、といふことを打ち合はせることにした。
 その日吹雪いた。風はめつたやたらにグル/\吹きまくつた。降つてくる雪は地面と平行線になつたり、逆に下から吹き上つたり、斜めになつたり、さうなるとすぐ眼先さへ、たゞ眞白に、見えなくなつてしまつた。それで道から外れると、膝まで雪の中にうづまつた。雪は外套のどんな隙からでも入りこんで、手の甲や、爪先などは、ヅキン/\痛んできた。小學校へは、遠い家は小一里もあつた。〉

 この校長先生は、農民たちを啓蒙し、小作闘争を支援するオルガナイザーとして描かれているのです。
 主人公は源吉という貧農で、小作闘争は地主と警察の弾圧で敗北し、復讐のために源吉は地主の家に放火するところで終わっていて、校長がどうなったかは描かれていません。多喜二はこれを書いたあと、なぜか発表しませんでした。そのあと多喜二は、1933年2月20日治安維持法違反容疑で逮捕され、東京・築地警察署でその日のうちに虐殺されてしまいます。29歳でした。
 教員が、当時どんな役割を国家から割り振られていたのか、多喜二が知らないはずはありません。にもかかわらず多喜二は学校の先生に、なにがしかの希望を抱いていたのだろうと考えます。逆に言えば、「左翼」は「先生」を、その啓蒙主義的な姿勢のゆえにか、はたまた「民衆」の生活を知らざるをえない位置にいたためなのか、自分たちの側に、より多く近づけて見すぎてしまったといえるでしょう。こうしたある意味で甘い見方を、戦後民主教育は、「先生」の側から引き継いできたのかもしれません。

* 写真は下記より
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=117&CGISESSID=6b275423d8c32136445019a6242171fd

*次の論文を参照しました。
「[防雪林]の芸術創作について」韓玲玲(東北師範大学院 日本研究所日本言語文学専門)
http://www.takiji-library.jp/announce/2007/2007030905.html

*引用はすべて青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/

(5)『風と光と二十の私と』

坂口安吾の書斎


 1925年から1年間、坂口安吾は世田谷下北沢の荏原尋常高等小学校の分教場の代用教員をしていました。坂口安吾20歳の時のことでした。五年生70名を担当したその時の経験は、1948年の『風と光と二十の私と』にあざやかに描かれています。
 彼は、この自伝的エッセイの最後に、「教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。」と結んでいます。いわば「優秀な」教員として充実した生活を送っていたことを、後年ふりかえってそのように述べているのです。
 彼の「先生」ぶりはこんなふうです。

〈先生の数が五人しかない。党派も有りようがない。それに分教場のことで、主任といっても校長とは違うから、そう責任は感じておらず、第一非常に無責任な、教育事業などに何の情熱もない男だ。自分自身が教室をほったらかして、有力者の縁談などで東奔西走しているから、教育という仕事に就ては誰に向っても一言半句も言うことができないので、私は音楽とソロバンができないから、そういうものをぬきにして勝手な時間表をつくっても文句はいわず、ただ稀れに、有力者の子供を大事にしてくれということだけ、ほのめかした。然し私はそういうことにこだわる必要はなかったので、私は子供をみんな可愛がっていたから、それ以上どうする必要も感じていなかった。
 特に主任が私に言ったのは荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった。この子は然し本来よい子供で、時々いたずらをして私に怒られたが、怒られる理由をよく知っているので、私に怒られて許されると却って安心するのであった。あるとき、この子供が、先生は僕ばかり叱る、といって泣きだした。そうじゃない。本当は私に甘えている我がままなのだ。へえ、そうかい。俺はお前だけ特別叱るかい。そう云って私が笑いだしたら、すぐ泣きやんで自分も笑いだした。私と子供とのこういうつながりは、主任には分らなかった。〉

 元教員が、自分の教育実践を自慢げに語っているような文章と少しもちがわないようにも見えます。なぜ教員のような仕事が自分にできたのか、彼は自己分析します。「誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないか」と。そこから人は「堕落」していくのだろうと。「私は当時まったく超然居士で、怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、つまり行雲流水の如く生きようと」心がけていたからだと。「先生」はいわば老成していないとできない仕事なのだということでしょう。「老成」という言葉を坂口安吾は、決していい意味で使ってはいません。「老成の空虚」に、その時自分は気づかないままに、教員の生活に満足してしまっていたという風に総括しているのです。

〈牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。
私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、
「先生、叱っちゃ、いや」
彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。
「ああ、叱らない」
「かんべんしてくれる」
「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」
彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。
 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。〉


 坂口安吾は、発達論の常識に反して、青年から成人に至る一時期に、後の大人時代にはない「成熟期」に達することがあるのではないか、といっています。若い教師や学生たちの発言の中に、私が何十年の経験の中でやっと到達できたと思ったことを、いとも易々と発言しているのを時に耳にすることがありますから、そういう風にも考えられるなと思いました。しかし同時に、実のところ「老成」を達成しているのは「教育」という仕事や「教育」という考え方が、青年を「老成」させていくのかもしれないのです。
 坂口安吾は、『教祖の文学』(1947年6月「新潮 第四四巻第六号」)で、小林秀雄を徹底的に批判しています。

〈だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退ッ引きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有る。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。
 生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。
……小説は十九世紀で終つたといふ、こゝに於いて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ。〉

 自分の人生を、喜んだり悲しんだり苦しみながらこしらえるのではなく、本質を見ること、見抜くこと、あるいは人生はこういうものだと諭すこと、先例やお手本にならって「芸術作品」の鑑定ができるようになること。そういうことができる小林秀雄はいってみれば「老成」「成熟」した「先生」といえるかもしれません。「老成の実際の空虚」を、安吾小林秀雄の評論に見ていたのでした。
 安吾が『風と光と二十の私と』で展開しているのは、実のところ近代学校批判なのではないでしょうか。しかしそれは直接的な批判の仕方ではなかったのです。物語的に語られるところは、立派な教育実践記録とも読めます。しかしそうした自らの実践の傍らに、それを可能にした「老成」の「空虚」を並べるのです。安吾は「教育」や「学校」について積極的に語っているのではありません。「文学」というものは、実人生に根を下ろして生成するのであって、文学作品の「鑑賞」のなかで悟りを開くことを目的にしているわけではないと言っています。
 『文学のふるさと』(現代文學 第4巻第6号 1941年8月号)で、安吾芥川龍之介を引きながら次のように「突き放される」経験が文学のふるさとだと説いています。「学び」のふるさとももしかすると、こうした「突き放される」経験のなかにその原型があったのに、「学校」制度の「改革」によって、「わかる授業」の展開のなかで、すっかり消えてしまったのかもしれません。ちょうど、文学が文学教育や国語教育の発展の中で衰退し、「無常ということ」の字句の解釈が入試問題になり、文芸時評地盤沈下していったように。

〈 晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
 芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
 さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
 この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
 ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。〉

*引用はすべて青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
写真は
http://f.hatena.ne.jp/hugo-sb/20070411140626
より。

(4)『大導寺信輔の半生』

河童(芥川龍之介)


 日本の近代文学作家のなかには教員を経験した人がかなりたくさんいるように思います。夏目漱石島崎藤村などは正規の教員でしたが、石川啄木をはじめとして「代用教員」まで含めると、石牟礼道子宇野千代三浦綾子宮尾登美子坂口安吾といった人たちも教員経験者です。作家ではありませんが小津安二郎も代用教員経験者です。
 近代文学を生み出し、支えてきた人たちは学校経験をどのように考えてきたのだろうか、というのがこの雑文のひとつのテーマですが、これほどたくさんの作家たち(もちろん調べきれていないのでまだたくさんいると思います)が教員経験者であることは意外でした。生徒経験者はまあ、ほとんどすべての作家たちでしょうから、生徒経験を作品の中に生かしている作家はもちろんたくさんいるでしょう。だとすれば、近代学校経験の検証に文学作品は「資料」として十分に活用できるのではないかと考えます。
 小説などはフィクションですから、これを「史料」とすることは出来ないでしょうが、SFとか空想的な童話とかでない限り、文学作品はその時代の経験を、個別的な「史料」よりもたくさんの読者を獲得したといういわば時代のフィルターをかけられてきたわけですから、言ってみれば「統計的具体」の表現として扱うことができるのではないでしょうか。勿論、小説作品などの文芸作品がその時代の思想や文化を表象したものとして、文学史や思想史で扱われてきたでしょう。それとは別のスタンスから「近代学校史資料としての近代文学作品」にアプローチできるのではと考えています。

 そこで、今回は芥川龍之介の作品を取り上げてみたいと思います。『羅生門』をはじめ芥川の作品は高校の教科書に取り上げられ、学校教育の教材との親和性は大変高いのですが、彼の別の作品からは「近代」や近代学校を批判したり忌避したりする雰囲気がにじみ出しています。芥川もまた教員経験者ですから、彼の作品には生徒経験と教員経験との二つが生きています。もっとも彼は「学校」を経験したというより、「学校」経験をとおして「近代」の虚構を「ぼんやりと」指摘していた、と言ってもいいのではないかと思います。もしかしたら近代学校批判の作家という位置づけも可能なのでないかとひそかに思っています。
 もっともこういう議論は、芥川研究のなかでは既にたくさん言われているのかもしれません。ネットで検索したら、たいがい研究動向の一角くらいは引っかかってくるのですが、これがあまり見当たりませんでした。仕方がないので独断と偏見で書いてみたいと思います。お気付きの諸賢にアドバイスをいただければ幸いです。
 芥川は1892(明治25)年3月1日、東京市京橋区入船町で生まれています。
http://yushodo.co.jp/pinus/62/press/index.html
彼は自分が生まれた東京の下町に愛着を感じつづけていました。穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのがならび、ドブからは悪臭があがり、いつも泥んこの道。こんな本所界隈に「自然の美しさ」を感じ取る大導寺信輔は、芥川自身だと考えて差し支えないだろうとおもいます。芥川は江東尋常小学校から府立第三中学校、第一高等学校、東京帝国大学英文科と進学していますから、下町の牛乳屋のせがれの通常のコースではなかったのです。

 学校も亦信輔には薄暗い記憶ばかり残している。彼は大学に在学中、ノオトもとらずに出席した二三の講義を除きさえすれば、どう言う学校の授業にも興味を感じたことは一度もなかった。が、中学から高等学校、高等学校から大学と幾つかの学校を通り抜けることは僅かに貧困を脱出するたった一つの救命袋だった。尤も信輔は中学時代にはこう言う事実を認めなかった。少くともはっきりとは認めなかった。しかし中学を卒業する頃から、貧困の脅威は曇天のように信輔の心を圧しはじめた。彼は大学や高等学校にいる時、何度も廃学を計画した。けれどもこの貧困の脅威はその度に薄暗い将来を示し、無造作に実行を不可能にした。彼は勿論学校を憎んだ。殊に拘束の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響を伝えたであろう。如何に又グラウンドのポプラアは憂欝な色に茂っていたであろう。信輔は其処に西洋歴史のデエトを、実験もせぬ化学の方程式を、欧米の一都市の住民の数を、 ―― あらゆる無用の小智識を学んだ。それは多少の努力さえすれば、必しも苦しい仕事ではなかった。が、無用の小智識と言う事実をも忘れるのは困難だった。ドストエフスキイは「死人の家」の中にたとえば第一のバケツの水をまず第二のバケツヘ移し、更に又第二のバケツの水を第一のバケツヘ移すと言うように、無用の労役を強いられた囚徒の自殺することを語っている。信輔は鼠色の校舎の中に、 ―― 丈の高いポプラアの戦ぎの中にこう言う囚徒の経験する精神的苦痛を経験した。(『大導寺信輔の半生』)

 芥川の学校嫌いは観念的な学校批判ではなかったのは『毛利先生』(大正七年十二月)という作品に描かれている東京の中学校の代用教員の描き方をみれば了解できましょう。英語の授業を担当していた毛利先生は生徒たちから日本語の語意の貧しさを笑われ、ばかにされていた。卒業後、7、8年して、偶然、喫茶店で従業員に英語を教えている毛利先生を目撃する。

ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を ―― 先生の健気な人格を始めて髣髴し得たような心もちがする。もし生れながらの教育家と云うものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえども止める事は出来ない。もし強いて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛な活力も即座に萎微してしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教えると云うその興味に促されて、わざわざ独りこのカッフェへ一杯の珈琲を啜りに来る。勿論それはあの給仕頭などに、暇つぶしを以て目さるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためと嘲ったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤謬であった。思えばこの暇つぶしと云い生活のためと云う、世間の俗悪な解釈のために、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であろう。元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾とあの山高帽とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ましく、不退転の訳読を続けて行った。(『毛利先生』)

 芥川にとって学校という構築物の中で演じられるあらゆることが、作り物のように感じられたのではないでしょうか。「先生」もそうした枠の中でだけ見てしまう。そういう人や物に対する限定された視線を芥川は「近代」が構築した仮物のように思えたのではないでしょうか。芥川の作品には近代以前に題材を取ったものがかなりあります。前近代の人々の生活の方に彼は親近感を持っていたのだと思います。『一塊の土』(大正十二年)は、近代に取材はしているものの前近代の農村の働き者の女性とその姑の葛藤を描いています。いわば前近代の人生を、その苦楽を情感を込めて描いているのです。一方で、芥川がえがく「近代人」は醜悪な姿で登場します。『保吉の手帳から』(大正十二年)には、勤め先の海軍の主計官がレストランの窓から乞食の少年に「ワンといえ」と要求して残り物を投げている姿が映されている。芥川の反感は、給料の支給の窓口で、その手続きに手間取っているその主計官に保吉が「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」といわせているところに明確に表現されています。上流階級の不遜な態度にたいする憎悪は、「或男爵の長男」が江ノ島に潜りにきている少年たちに銅銭を海に投げ込んで拾わせに行く場面のところにも明確に現れています(『大導寺信輔の半生』)。
 台頭する無産階級運動、プロレタリア文学派の活動。そうした時代の流れの中で芥川は「近代」の価値のほうに意味を見いだすことはできなかったから、彼は無産階級運動の声に抗する基盤を持たなかったのです。「近代」の醜悪さに憎悪を抱きながら、それと闘う彼自身の根拠を持つことができなかったのだろうと思います。ニーチェの熱心な読者だった芥川も「反近代」ののろしを上げることはかなわなかったのです。芥川の自殺の原因は「ぼんやりした不安」だと言われてきました。『大導寺信輔の半生』の終わりの方にこんな記述があります。

纔かに彼の知った上流階級の青年には、 ―― 時には中流上層階級の青年にも妙に他人らしい憎悪を感じた。彼等の或ものは怠惰だった。彼等の或ものは臆病だった。又彼等の或ものは官能主義の奴隷だった。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の為ばかりではなかった。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの為だった。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでいた。

 この「何か」とは何でしょう。私は「近代」そのものだったのではないかと思います。自分や中流上流階級の或るものたちが「彼自身意識せずに」憎んでいたもの。それが明確な形を結ばなかったこと。これが、芥川だけではなくこの時代の「ぼんやりした不安」を作り上げたのものだったのではないでしょうか。
 芥川がこうした「反近代」の自覚を明確にできなかったのは、彼自身が1916年から2年間、海軍機関学校で英語の嘱託教授をやったことで、「学校」というものが形成する「近代」の巨大な波に半ば飲み込まれていたからではないかと推測してみます。
 海軍機関学校をやめ、1918年大阪毎日新聞に入社しますが、その時の「入社の辞」(大正八年)に「不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来の海軍将校を陶鋳すべき教育家として、いくら己惚れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺出来ない点だけでも、明に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があつたにしても、一家眷属の口が乾上る惧がある以上、予は怪しげな語学の資本を運転させて、どこまでも教育家らしい店構へを張りつづける覚悟でゐた。」と芥川は書いています。芥川には「毛利先生」という視線があったがために「仮」の構築物たる学校の教師であってもよいと考えたのかもしれません。しかし、芥川にとって「文学」と現実の近代社会とは別物と意識されていたのではないでしょうか。というより経験してきた近代に敵対するものとして「文学」はそれを生きる価値があるという風に考えてきたのではないでしょうか。私たちは近代と文学は手に手をとって歩んできたと「近代文学史」の教えに添って想像しがちです。芥川の時代にも当然、文学教育が浸透していったことでしょう。芥川は「本」によって自己形成をしてきたという強い自覚がありました。それは学校によってではなくです。ですから芥川は「本」「文学」の可能性と「学校」を対置していたのではないでしょうか。昭和2年に「遺稿」となった「暗中問答」という原稿があります。

或声 しかしお前は資産を持つてゐたらう?
僕 僕の資産は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。
或声 しかしお前は家を持つてゐる。それから近代文芸読本の……
僕 あの家の棟木は僕には重たい。近代文芸読本の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰つたのは四五百円だから。
或声 しかしお前はあの読本の編者だ。それだけでもお前は恥ぢなければならぬ。
僕 何を僕に恥ぢろと云ふのだ?
或声 お前は教育家の仲間入りをした。
僕 それは嘘だ。教育家こそ僕等の仲間入りをしてゐる。僕はその仕事を取り戻したのだ。

『近代日本文芸読本』は芥川が編者になって大正14年、興文社から出版された5巻本です。
http://www.nihontosho.co.jp/isbn/ISBN4-8205-0356-1.htm
 私の勝手な想像の根拠はこれしかありません。芥川にとって文学と学校は絶対矛盾の存在だったのではないでしょうか。

写真は
http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/kpteigi.htmより

追記
 写真は、芥川が描いた河童です。作品『河童』(昭和2年)には「近代教(=生活教)」を信奉する河童社会が描かれています。「近代」にたいする芥川のスタンスがうかがえる作品になっていると思います。

『白い壁』

本庄睦男


 昭和のはじめのころ、東京の下町の尋常小学校。鉄筋コンクリートの校舎が城砦のように聳え立っている。本庄陸男はその下町の小学校の教員経験を、後に『白い壁』(1934年)という小説に書いています。彼が編集長だった『人民文庫』が1938年廃刊に追いやられ、彼は『石狩川』を書いて、1939年には結核で死んでしまいます。
 同じ1939年の1月、国分一太郎は南支派遣軍報道班員として中国に軍属として渡り、1940年に『戦地の子供』という本を出版しています。国分は中国広東の子供たちに、「いまだ日本軍の慈愛をしらぬ」重慶の子供たちへむけての「生活綴り方」を書かせ、その本に掲載しています。川村湊は「『戦地の子供』は、国分一太郎の生活綴り方の論理を裏切っている。それは単に転向とか戦争協力といったことだけではない。内発的で、真実の生活を見ようという生活綴り方の精神そのものが損なわれている。あるいは、「生活綴り方」とは結局は現実の社会や政治的なイデオロギーの検閲によって、その自発性を扼殺されるというよりは、自発性や内発性そのものを仮構的に枠取られてしまうものなのだろうか」(『作文の中の大日本帝国』2000 岩波)と「書かせること」にたいする根源的な疑問を投げかけています。
 一方、本庄陸男の『白い壁』は検閲による伏せ字にもかかわらず、小学校の「低能児教室」での子供と教師の格闘を丹念に描くことで「教室」が「社会」と地続きであることを描き出しています。

「儲かるもんか!」川上忠一は眉根をしかめてそれを即座に否定した。「発動機に押されっちゃって、からっきし仕事がまわってこねえんだよ、遊んでる日がうんとあらあ、遊んでてもしかたがねえんだけんど、何しろ仕事がねえんだからなあ、父(ちゃん)だって辛(つら)いし、あたいだって――」そう雄弁になってぶちまけだした子供の言葉を、杉本はじいっと聞いていることができなくなった。彼は埃と床油の臭気が立て籠めていることに思いあたり廻転窓の綱をがちゃりと曳いた。夕映えの反射がそこで折れて塗板の上をあかるくした。「先生えあたいなんかはなあ、まちの子供みたいにあそんじゃいられねえよ、おっ母(かあ)の畜生が逃げっちゃったんだ、そうよ、船は儲からねえからよ。儲からねえたって言ったって……」教師は照れかくしに教卓のまわりを歩き、ぱっぱっと煙草をふかしつづけた。落第坊主即低能と推定されて自分の手に渡されたこの痩せこけた子供が、こんなに淀みなく胸にひびく言葉をまくしたてるのだ。よしそれならば――と杉本は真赤な顔を子供に向けなおし、まだわめきつづけようとする口を強制的にでも止めてしまおうとした。
「よし!」杉本はどしんと床を踏みならした。「よし! もうわかった、それならば――」彼のそのいきおいにはっと落第生に変化してしまった川上忠一は、亀の子のように首をすくめぺろりと細い舌を出した。しまった――と思ったがすでにおそいのである。そして彼自身もその刹那から職業的な教師にかえったのも知らずに、「それではなあ川上、これから先生が訊ねることはどんどん返事をしてくれよ」と言いつづけていた。それから彼は測定用紙をひろげ、三歳程度の設問をもったいぶって拾いだしていた。
「コノ茶碗ヲアノ机ノ上ニオイテ、ソノ机ノ上ノ窓ヲ閉メ、椅子ノ上ノ本ヲココニ持ッテクル――んだ」
 おそろしく生まじめな眼を輝かした教師に、川上忠一はへへら笑いを見せて簡単にその動作をやってのけた。
「その調子!」と杉本は歓声をあげた、その調子――そして、このもったいぶった検査を次々に無意味なものにたたきこわしてしまえ。彼はそう思って、「ではその次だ」と呶鳴った。
「モシオ前ガ何カ他人ノ物ヲコワシタトキニハ、オ前ハドウシナケレバナランカ?」
「しち面倒くせえ、どぶん中に捨てっちまわあ――」
「え? 何? なに?」杉本はすでに掲示されている正答の「スグ詫ビマス」を予期していたのだった。だがこの子供の返答は設定された軌道をくるりと逆行した。杉本は背負い投げを喰わされたようにどきまぎした。

 担任の杉本は低能児とされて校長に連れてこられた編入生の知能検査をしているのです。杉本は低能児学級の担任なのです。低能児学級とは今日の養護学級とも違うようです。下記は昭和3年のある小学校の学級編成です。

第1学年 イロハの3学級 児童の生年月日別 各学級 男女合併
        イ組 最年少者 虚弱児、劣等児 促進学級 52名
第2学年 イロハの3学級 イ組 虚劣の特別学級 40名
       後の2学級 能力平分の男女学級
第3学年 イロハニの4学級
        イ組 養護学級 34名 校医診察の結果
        ロ組 促進学級 31名 知能検査により
         他の2学級性別により男と女の編成
第4学年 男、女の2学級 性別による編成
第5学年 男、男女、女の3学級 性別 による
第6学年 男、男女、女の3学級 性別による
高等1年 男、男女、女の3学級 性別による
高等2年 男、男女、女の3学級 性別による
 5年以上 算術科のみ、優、中、劣の3組に毎時編成替え能力別  劣等児、虚弱児救済の為の特別学級が4学級あり、能力別取り扱いを加味したものに算術科  編入児童は固定的なものでわはない。その児童の促進程度により随時他学級へ復帰しまた他学級より編入される者もあるという移動的のものである。

http://www.sikasenbey.or.jp/~ueshima/nararekisi4.html

 この「促進学級」には「知能検査」で相当多数の子供が入れられているのがわかります。上記の資料では「ドルトンプランによる大正新教育の実践という土壌の上に様々な成果が昭和初期に花咲いていく」例としてこの学級編成があげられているのです。
 寺本晃久によれば、1887(明20)年には45.0%だった就学率が、1900(明33)年には81.5%にまで向上する。そうした就学率の向上を背景に、学業成績の劣る「劣等児」「低能児」が教育問題として明治30〜40年代には浮上してくるという。知的障害というより学力が劣っていると学校の中で認定して、その劣等児対策研究が、学校の中でその「個人」を対象に「研究」がすすめられ、それらの子ども達の施設が成立してくるのであって、その逆ではなかったと寺本は言っています。(「「低能」概念の発生と「低能児」施設 ――明治・大正期における――」『年報社会学論集』第14号,2001年6月発行,関東社会学会,pp15-26)
http://www.arsvi.com/0w/ta01/010600.htm
 こうした学級編成を「科学的」なものにしていたのが知能検査だったわけです。その科学はじつのところ「学校」とりわけ「教室」という空間の中に囲い込まれた「子供」をクライアントとして誕生した「科学」であり、その子供が家庭や地域の中で生きているということは検査の圏外におかれたのでした。まさに「教室」が知能検査という「科学的方法」を生み出したのでした。
 『白い壁』は、そうした近代学校の学級編成の虚構を、自然主義リアリズムという手法で見事にあぶり出していたといえましょう。
 生活綴り方は、子どもたちの生活を「教室」でつづらせ、生活の真実に向き合うことを進めていったのですが、このリアリズムを恐れた政府によって弾圧され収束していったという見方がありますが、川村湊はそれに反対します。綴り方教育は文部省によって取り入れられ、「銃後で綴られる慰問文」として引き継がれたのだと。たとえ子ども達が戦死した父の骨を迎えにいくという「暗い」ものであれ、「家族」のあり方がリアルに描かれていれば、「家族」を守るという使命感を兵隊さん達に喚起できたのだという。川村は生活経験主義的な実践の陥穽を指摘しています。

戦前の生活綴り方が生活指導や生活改善の傾向を強め、それは典型的には、やがて文部省の国民学校令の施行規則に示される「綴リ方ニオイテハ、児童ノ生活ヲ中心トシテ、事象ノ見方、考エ方ニツキ適正ナル指導ヲシ」という考え方に結びついていった。つまり、生活綴り方の生活経験主義的な内発性、自発性は、「適正ナル指導」によって導かれる生活指導や道徳教育の結果を、強制や強要ではなく、それがあたかも自分たちの内部から自発的に、あるいは内発的に出てきたかのように受け止めるということになってしまったのである。「書かせる」ことによる支配ということを、生活綴り方を指導する教師たちはほとんど自覚していなかった。綴り方、作文、感想文、反省文、自己批判文……自発的、内発的に書かれるべき「作文」こそが、もっとも教育的な支配の道具として有効であることを作文=綴り方の教師たちは知っていた。そして、そのことの無自覚さ、無防備さは、簡単に”自発的に文章を書くこと”を、戦争の総動員体制に奉仕するものとしてしまったのである。(『作文の中の大日本帝国』)

 
 近代の学問、とりわけ医学や心理学などの「成果」が「教室」に直接に入り込み、学級編成や教師の視線を変容させてきました。その意味で近代科学は境界なしに教室に侵入したのです。では「文学」などの芸術はどうだったのでしょうか。近代文学は「教室」にどんな改変をもたらしたのでしょうか。それとも近代文学は「教室」の外にしかなかったのでしょうか。生活綴り方は「文学教育」ではなく「生活指導」や「道徳教育」だったのだとすれば。

写真は下記より
http://www.choko.sakura.ne.jp/mt_esra/archives/2006/10/post_142.html

『雲は天才である』

渋民尋常高等小学校

 1906年4月石川啄木は故郷渋民村の尋常小学校の代用教員となります。このときの経験をもとに『雲は天才である』は書かれています。『足跡』『葉書』などにも尋常小学校の様子が映されています。『雲は天才である』(明治39年)に登場する代用教員、新田耕助(あらたこうすけ)の行動は、ほぼ石川啄木の学校での行動だと思って差し支えないことは、「渋民日記」を読めば想像がつきます。新田耕助は課外授業を自らはじめ、英語と外国史を担当外の高等科の子どもたちに教えています。

實際は、自分の有つて居る一切の知識、(知識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の經驗、一切の思想――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭(くわせん)となつて迸しる。的なきに箭を放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齡の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つばかりに紅血の油を盛つた青春の火盞ではないか。

 早い話がアジテーションをやっているのですね。自分が教員をするのは「単に読本や算術や体操を教えたいのではなく、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたいためである」(「渋民日記」『啄木全集第5巻』p.95)と言って、文部省の教授細目など「教育の仮面」にすぎないと言い切っています。

余は詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまでみえた一悪童が、今や日一日に自分にいふ通りになってきたことである。(「渋民日記」p.99)

 『雲は天才である』に新田耕助が作詞作曲した歌を、校歌として子どもたちにおしえ、それが自然に拡がって、校長たちの激怒をよび、それに立ち向かい勝利する場面があります。それはフィクションであるかもしれませんが、「鬱勃たる革命的精神」でフランス革命を教えていた啄木のアジテーション教室から生まれたフィクションであるにちがいありません。

ルーソーは歐羅巴中に響く喇叭を吹いた。コルシカ島はナポレオンの生れた處だ。バイロンといふ人があつた。トルストイは生きて居る。ゴルキーが以前放浪者(ごろつき)で、今肺病患者である。露西亞は日本より豪い。我々はまだ年が若い。血のない人間は何處に居るか。(『雲は天才である』)

 代用教員林清三(『田舎教師田山花袋)は日露戦争勝利の提灯行列から聞こえる「万歳! 日本帝国万歳」をききながら喜びを顔にたたえて、結核で死んでいきます。同じ頃、啄木は「勝った日本よりも、負けた露西亜のほうが豪い」(「渋民日記」p.118)と教室で教えていたのです。
 しかしながら、近代人石川啄木はまた、管理教育の元祖でもあったことは、『足跡』をよめば明らかです。啓蒙精神と革命的精神と教育思想とりわけ管理教育は、じつはそれほど矛盾するものでないことを啄木の代用教員小説は証しているように思います。


写真はhttp://blog.livedoor.jp/chocotto_tax/より
渋民尋常高等小学校