落書

グラフティを消す

 『我が心のオルガン』の3回目を見てしまいました。1960年代の韓国の小学校は等級制のようで、いろんな年齢の生徒がいるのですが、その生徒たちの足下に注目していました。やはりほとんど素足でしたね。穴の空いた靴下をはいている子もいました。先生たちはスリッパのような上履きでした。それで3回目の視聴の目的は達したのですが、別の問題を見つけました。
 トイレに同僚の女教師との間柄についての落書きを、若い教師カン・スハがあわてて靴で消す場面が出てきます。トイレは校舎の外らしくて、ここは靴ですね。生徒が書いた落書きですから教員と生徒は共用でしょう。あとでこの女教師と落書きについて会話する場面も出てきますが、「子どもの落書きですから気にしていません」とか言っているだけなんですね。「落書するな!」という指導はしているのでしょうが、そういう場面は出てこない。落書は落書として、生徒たちの表現として「許容」されているのかどうかわかりませんが、どうもあまり角を立てていない風なのが気になりました。
 学校の落書は、大昔からあったのでしょうかね。こういうのは学校史などにはのるわけがないですから、調べようがないですね。それこそ聞き書きに頼るしかない。相合い傘というような「古典的」な落書ならまだしも、落書防止のためにせっかく硬い机にしたのに、そこに彫ったり、シンナーでないと消せないもので書いたりするしつこいのが出現したのはいつころでしょうか。木製の簡単に彫れる机に「卒業記念」彫刻をする奴がいたのでしょうね。まあ、日本人の落書癖は世界的に有名らしいですが、
http://tsurusyokunin.blog6.fc2.com/blog-entry-440.html
 この頃は学校に落書はあまり見かけられなくなった様な気もしますがどうでしょうか。差別落書は学校はじめいまだに無くなっては居ないようですが、
http://tottoriloop.blog35.fc2.com/blog-entry-96.html
(県内の部落差別のほとんどは落書き)
 落書の場所が、インターネット掲示板に移行したためでしょうか、落書の目的が集団内での裏言説ではなく、不特定多数にむけた「スペクタクル言説」になってきています。学校や会社内で通用すればいい時代から、同僚とか仲間のなかでの匿名の「批判・ぐち・中傷」は、その「効果」をも測ってもいたのに、もはや集団内での効果をねらって、その集団をなんとかしようという意図はすこしもない、スペクタクルの言説になってきています。
 最大の落書掲示板「2チャンネル」にこんな紹介がありました。

〈某大会社の便所にて。
     「 」一つ一つが違う筆跡だと思って下さい。
「この会社は腐っている!不正をしている!違反だらけだ!」
「電波がうわごと言ってるんじゃねぇ」
「証拠がある!○○部長は不正をしている!○○の入札に○○が○○!」
「詳しく書いてもらおうか」
「これだけじゃない。オレはもっと知っているんだ!」
「↑これ本当だったみたいだな」
「不正なんかどこでもやってるんだから騒ぐな」
「お前、○○会社の○○か?出入り禁止にするぞ」
……何だかなぁと。まるで2chだ。つーか2chが便所のラクガキなのか。〉
http://piza.2ch.net/occult/kako/984/984326027.html

 便所の落書にはユーモアがあることも上記で紹介しています。

〈便座に座ってふと前を見ると、「右を見ろ」
それで右を見ると、「左を見ろ」
左を見ると、「上を見ろ」
恐る恐る上を見上げると、「後ろを見ろ」
恐怖にかられてそっと後ろを振向くと....
....「きょろきょろするな」〉

 落書というと、差別落書、誹謗中傷落書、エッチ落書ばかりを想像しがちですが、「芸術的」な大道芸ともいえるグラフティまで視野に入れて考えなければならないかもしれません。(『現代思想』2003年10月号)まあ、マルチチュードの表現と言えるかどうかは別として。言葉にしろ絵画にしろ、その中味は、それが誰に向けて語られ、表現されているのかによって、規定されてくるだろうと思います。いま、学校というところで「落書」が消えていっているとすれば、それは「好ましい」と同時に、内に向かう批判精神の衰退であるのかもしれません。もはや「学校」という内部にその別のあり方への願望・可能性をも込めた「ぐぐもった感情表現」さえ枯渇し始めた、と考えるべきなのでしょうか。それとも、「学校」も「会社」も「社会」もあるいは「国家」も「世界」も、それらがひとつながりのものとしてイメージした上で、その世界大の公的言説にむけた「落書」の時代をインターネットは切り開きつつあるのでしょうか。そういう言説が「便所の落書」と同居している、ということでしょうか。
 それはともかく、学校の落書というものも、大きくその「地位」を下落させてきたとはいえるのではないでしょうか。「学校」と「落書」とは運命を共にしてきたのでしょうか。

 写真はhttp://shumpu.com/column/sakuragi02/004.htmlより