「校舎」

旧山辺学校


 開智学校の開校(1873年)から12年遅れて、松本の里山辺・入山辺二村の力で明治18年に完成した旧山辺学校(写真)も、開智学校とおなじ擬洋風建築でしたが、開智学校ほどにかざりは派手でなくて、車寄せの屋根は寺院建築風になっています。ここも先日見学にいったのでいくらかその時の感想をメモしておきます。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/tiiki/sisetu/kyoiku/yamabe/index.html
山辺学校歴史民俗資料館)
 まず、開智学校と同じく中廊下式で両側に教場があります。雨が降ってきたので、教場のなかは電気をつけないとかなり暗かったです。当時は電気はないわけですから、自然採光によっていたでしょうから細かい字などは読みにくいでしょう。それで目が悪くならずに勉強できたのは、佐藤秀夫氏の指摘されているように(『教育の文化史 4 現代の視座』2005 阿吽社)木版印刷の大きな字だったからでしょう。教科書が和紙和装本の大きな字から、洋式活字印刷に変わるのは、佐藤氏によれば1904(明治37)年の国定教科書の登場以降です。もっとも、この国定教科書の文字の大きさも、今日の教科書よりもだいぶ大きかったようです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-kyoudo/2room/kokuteiy.htm
 ということは、これも佐藤氏の上記の本によると、文部省が近視予防のために教室の照明を意識的に考えるようになったのは1939年頃からだそうですから、自然照明に依拠する限り、文字の大きさはあまり小さくできなかったのではないでしょうか。中廊下式の教室配置の学校建築が、南面北廊下式に変わっていったのはいつからなのでしょうか。文字を小さくするには中廊下方式では北側の教室が暗すぎます。それで中廊下方式はなくなっていったのでしょうか。
 教室に照明が導入されても、南面北廊下の教室から中廊下には変わっていきはしなかったのでしょうが、自治体の財政難で一棟中廊下の校舎が一時期作られました。このとき、通風などの悪条件をあげて反対できても、照明があるわけですから、採光不十分とはいえません。さらに、近年の個性的な校舎の登場をみればわかるように、自然光を上手に利用することはあっても、自然光のみに規定された教室配置をしなくてもよくなっているわけです。
 そればかりか、学校にエアコンを導入するようになってくると、さらに教室の配置は自由度がましてきます。ですから前回紹介した山形県立霞城学園高等学校のように、学校はビルの一部、という場合も出てくることになります。もしかすると、たとえば夏休みとか冬休みなど季節的要因によって学校カリキュラムが影響される必要がなくなると、それもやがて一部の学校から消えていくかもしれません。生徒からの保護者からも、そして「熱心な」教員からも、また勿論文部科学省教育委員会からも出てきそうじゃありませんか。
 こうなると、伝統的な「校舎」というものは過去のイメージになってくるでしょう。こうした「校舎」イメージの変容は、どのような過程で進行していった/いくのでしょうか。
 旧山辺学校にオルガンが展示されていました。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/tiiki/sisetu/kyoiku/yamabe/No1/index.html
このオルガンが学校に来たときの村をあげてのお祭り騒ぎの記事もそこに添えてありました。このオルガンや顕微鏡などの学校器具など、「文明」の最先端がまっ先に学校に入っていた時代と、テレビとかエアコン、パソコンのように一般の普及の後から学校が追いついていく近年の状況とはちがうと思いますが、学校の中に流行の「モノ」が配置されることによって、教育内容や校舎建築までが少しずつ変容していくことは確認できるだろうと思います。
 先の広域通信制高校などは、ネット社会の拡がりをも前提に成立していました。こうなると「校舎」はいわば看板にすぎません。看板に「思い出」が詰まるはずはないのです。学校制度は、社会からの徐々たる「モノ」の侵入の中で、気がつかれないほどのゆっくりしたスピードで、その中味も外観も変わってきているし、これからも変わっていくのではないでしょうか。