「教養」

Mr.ソクラテス

 廃校のなかで、ヤクザの先生にかこまれながらドンヒョク(キム・レウォン)は、数学や倫理の勉強をさせられている。居眠りをするとボムピョ先生がやってきて、逆さにつるし上げ、水の中にいれる。数学に興味が湧かないと、鉄道線路にくくり付けて汽車の到着時間の計算問題を出す。答えられなければ汽車にひき殺される。勉強は拷問によって強制される。シンジケートはボムピョ先生(カン・シニル)に組織の「犬」として警察に送り込むために不良少年ドンヒョクの教育を命じたのである。
 2005年の韓国映画「Mr.ソクラテス 미스터 소크라테스」はアクション映画ということになっていますが、これは「教養」の映画です。学校で教えられる「教養」は強制されなければ学ばない、頭だけではなく、身体や感性までも「教養」によって強制的にでも形成されなければならない。そういう教養学校のカリカチュアを監督(脚本)チェ・ジノンは描こうとしたのでしょうか。
 でも、この映画は教養主義、学校で知識を詰め込むことを攻撃しているのかというとそうでもないわけです。その教え込まれた「悪法も法である」などの「真理」を刑事になったドンヒョクは、刑事という仕事の中で自分の「人生観」として獲得していきます。そうして、自分を警察に送り込んだシンジケートと闘うことになるというストーリーなのです。倫理の授業で教え込まれた「教養」「真理」がやがて、その人の生き方を大きく変えていくのだ、という「教養主義」映画にもなっているのです。教養はまさに人格の陶冶につながっていくというわけです。服役中の泥棒稼業のドンヒョクのおやじが、息子に脱帽する、というのがラストですから。
 1970年を最後に、日本の「教養主義」は没落した(竹内洋教養主義の没落』)、
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/boturaku.html
といわれ、「教養主義」こそ、ドイツファシズムに知識人が巻き込まれていった主犯なのではないか、とF・Kリンガーは『読書人の没落』(1969 名古屋大学出版会 1991)で論じていました。
 いまや、日本でもアメリカでも、読書によって人格の完成を目指すなどという学生は皆無かもしれません。では「教養」は滅び去ったのでしょうか? 1987年、保守主義アラン・ブルームの書いた『アメリカン・マインドの終焉 --文化と教育の危機』(みすず書房 1988)がベストセラーになりました。ニーチェ流の相対主義によって「善悪の区別が存在するという健全な幻想は、最終的に追い払われてしまった」とブルームは嘆き、次のように「大衆的相対主義」を批判的に描きます。

〈尊敬に値し、しかも手の届く人間の気高さは、善なる生の探求や発見に見いだすべきではなく、自分の「ライフスタイル」を創造することに見いだすべきである。「ライフスタイル」というものはただひとつきりではなく、多くのものが可能であり、おのおのが他と比較しようもないものである。ある「ライフスタイル」をそなえた者は誰とも競合関係にはないし、したがって誰にも劣りはしない。しかもこれをそなえているがゆえに当人は、自尊心と他人からの尊敬を、ともに得ることができる。
 こうしたことはすべて、いまや合衆国で毎日演じられている出し物になっており、心理療法は、価値を自分で定立することが健康な人格の基準である、とみなしている。〉(150P.)

 「世界でたったひとつの花」といった気分をここでは批判していましょう。「自己実現」の時代風潮を批判しているのです。このことが「教育」の危機につながっているからです。「教養」とか「真理」あるいは「人格の陶冶」というのは、実は「教育」の根っこのところにからんでいましょう。

〈「教養」に相当するギリシア語は、“パイデイア”であり、意味は「子供が教育係に指導されて身についたもの」の事である。〉
http://ja.wikipedia.org/wiki/教養

 そうだとすれば「教養主義」の没落とは、「教育」の没落と重なっていたのではないでしょうか。
 昭和22年に制定された「教育基本法」に「教養」の文字は「第八条(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」だけでした。ところが昨年制定された「改正」教育基本法には、上記の政治的教養以外に、「教養」の語句が3個所も登場します。たとえば、

〈(教育の目標)第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
1 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。〉
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/index.htm

 「教養」は「教育改革」のなかで、あらたな「位置」を与えられようとしているのでしょうか。諏訪哲二の『なぜ勉強させるのか』(2007 光文社新書)は、身体意識的教養主義ともいうべき「哲学」を展開しています。諏訪哲二は映画「Mr.ソクラテス」を見てなんというのでしょうか、聞いてみたいところです。自らの「教育哲学」を映画にしたものだと喜ぶのでしょうか。それとも諏訪教育哲学をオチョクッている、と怒るのでしょうか。

写真はhttp://www.wowkorea.jp/profile/300117.htmlより