「自己実現」

マズローの欲求段階理論

 教員は時代の流行語に極めて弱いのです。中高校生の使う言葉を知らない、という意味ではなくて、流行の教育用語(と考えたもの)をほぼ検証することなく使ってしまうという意味です。校長の訓話記録でも残っていれば、時代の教育用語の変遷をそのまま反映していることを多分実証できるでしょう。
 学校の教育目標などに掲げられることが多いのが「自己実現」という用語です。たとえば、「生徒一人一人が、明るく充実した学校生活を送り、自己実現を図るため、すべての教育活動において支援を行う。」(平成19年度大垣西高校教育の方針と重点)など。
http://school.gifu-net.ed.jp/ogknisi-hs/gaiyo/h19/gaiyo/h19_jyuuten_1.htm
 「自己実現」はもちろん中央教育審議会などが盛んに使ってきた用語です。ひとりひとりが自己の個性を伸ばし能力を発展させる、という程度の抽象的な意味で使っていますが、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/07020115/009.htm
(次代を担う自立した青少年の育成に向けて−青少年の意欲を高め,心と体の相伴った成長を促す方策について−(答申)平成19年1月30日)
 中央教育審議会答申のなかでは1981(昭和56)年6月 「生涯教育について」あたりが一番早い使用例かもしれません。(ちゃんと調べていません。ご存知の方は教えてください)
 各種の教育研究会や学校の校内研修で「自己実現」という言葉が出現するのは「平成」になってからが多いようです。さすがに大学などでは昭和51〜53年度に「自己実現をうながす学習システムの構想」などという研究課題が出ていたりします。
http://www.asa.hokkyodai.ac.jp/fuchu/KENKYU/kenkyuu-ayumi.htm
 「自己実現(self-actualization)」という用語はアメリカ合衆国の心理学者アブラハム・H・マズロー(1908-1970)の用語だそうですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論
この人は『自己実現の経営』(1967)という経営学の本も書いているようですね。ですから、「自己実現」で検索をかけると、個人のブログなどで「自己実現するには」式の人生論とならんで企業の人材育成サイトなども引っかかってきます。また、企業の人材育成のビジネススクールなどでも「自己実現」を掲げます。

〈イオンビジネススクールとは、「グローバル10」の実現に向け事業発展の原動力となるイオンのコア人材を早期選抜するとともに、従業員一人ひとりの『自分のキャリアは自分で切り拓く』という考え方に基づき、挑戦意欲のある人材が目指すポストを獲得し自己実現できるシステムです。〉
http://www.posful.co.jp/07rc_004.html

 もちろん、教育関連のサイトもたくさんひかかってきます。それらの多くは「自己実現」を疑うことなく使用し、「自己実現」が学校や将来の職場などで実現可能なのだという暗黙の前提に立って使用されています。さらに、この「自己実現」という言葉をてこに、従来の学校教育はいらないのでは、という主張になったりもします。

〈端山貢明(東北芸術工科大学名誉教授) そう。それでね、もうこの頃は、私は教育ということを考えていないんです。「学習」なんですね。自己開発、その前に自己実現。要するに人間が人間として成立していくことを自分で一生懸命やっていく。その時には昔から皆さん、学校でがんがん教え込まれたようなあの教育よりも、自分にとって必要な機能が手元にある。それでコンピュータにここ(手)で触ると、世界中のあらゆる情報を手に取ることができるようになる。そういう機能があるとね、従来のあのタイプの学校というのは、あんまりいらなくなってくる。〉
http://www.mmdb.net/emedia/eport80/page2/eport-L136.html

 当然というか、こういう動向は大学「新」学科に反映して来ます。南山大学大学院人間文化研究科 教育ファシリテーション専攻の「教育理念と目標」のサイトは下記です。
http://www.nanzan-u.ac.jp/Daigakuin/Edufacili/jugyoukannrenn.htm
 予想どうりというか、人権教育あたりも、この「自己実現」を好んで使います。
http://www.mukuge.net/jinnkennkyouikusuisinnpurann.htm
高槻市教育委員会が2000年4月に策定した「高槻市人権教育推進プラン」(抜粋)在日外国人教育の推進)
 こうした「自己実現」合唱に批判的な議論もあります。上野千鶴子は「仕事と自己実現が一致するなんて、大きな幻想ですよ。」「心理学者の罪ですね」と言っているそうですが、
http://simple-u.jp/pdone.php?id=679
 心理学だけではなくて、下記のような論文に出会うと経営学など勉強したくなくなりますが。「自己実現」は職場における操作概念だということがよくでています。
http://nels.nii.ac.jp/els/contents_disp.php?id=ART0006324797&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=Z00000007687776&ppv_type=0&lang_sw=&no=1185166526&cp=
(「有能感、自己決定、フロー経験と自己実現」)
 宮台真司は、社会学者らしい批判を展開しています。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=252
 仕事で自己実現できるのはごく一部のエリートで、あとは消費で自己実現、というのが現状であり、仕事外、非消費主義的な自己実現ができていた生活世界をいまや失っている、それが問題なのだ、といっています。
 しかし、学者とちがって、現実に企業という組織の中で働いている労働者は仕事の中で「自己実現」など無理ですよ、といわれたって、できればやりがいのある仕事にしたいと思っているわけです。それこそ小学校あたりから「自己実現」しなさいと言われてきているのであれば、たまには「自己実現」て何だったけ、でもなーそんなことより「生活」できるかどうかだよなー、と考えてしまいます。「自己」という概念を越えるきっかけはこういうところにありましょう。
http://www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi?%BC%AB%B8%CA
 「自己実現」という言葉はあまり使っていませんが、経営学の巨匠ピーター・ドラッカーは、企業という組織のなかで生きてきた個人が、その企業という組織と距離をとりながらいかに一人の人間として生きていくかを考える必要があると気づき始めたのが1950年代の終わりだといいます。企業経営者が従業員の「自己実現」を言い始めたのはもっと後でしょうし、教育現場に「自己実現」という言葉が浸透してきたのももう少し後のことでしょうが、これは、もしかしたら、いま否定されかけている「ゆとり教育」のはじまりかけた30年前と重なって来るかもしれません。ドラッカーの本は『プロフェッショナルの条件』しか読んでいませんが、知識労働者が主流となったという主張をネグリ・ハートの議論と重ねてみるという興味もありますので、ほかにもいくつか読んでみようと思っています。
 教育現場は、進路指導などの具体的な場面はともかくとして「教育理念」など思想的な側面でも産業社会、経営学の大きな波に足下を洗われながら、そのことにほとんど自覚的でなかったような気がします。

写真はhttp://premium.nikkeibp.co.jp/itm/col/kodama/09/02.shtmlより