総合的な学習の時間

受験本


 1980年代、90年代までの『学習指導要領』は学習内容、授業時数の削減を指示しており、この傾向の総仕上げが現行のいわゆる「ゆとり教育」学習指導要領です。2002年度から実施されてきたこの方針が「学力低下」の原因だということで、中央教育審議会で見直しを検討しているということです。「ゆとり教育」の目玉のひとつが「総合的な学習の時間」でした。完全学校週五日制も2002年度から実施されてきましたから、これも教育再生会議の批判の対象になっているわけです。
 本日22日の朝日新聞には「教育再生会議を問う」という特集記事があり、「ゆとり教育は経済的に恵まれない家庭の子の学力低下をまねき格差をひろげた」と指摘してきた苅谷剛彦氏が教育再生会議の目指す方向を「たいした病気でもないのに未熟な医者が緊急手術をすれば、健康な部分まで壊す恐れがある」と批判しています。
 教育再生会議がねらう「教育バウチャー」は、生徒が学校を自由に選択できるようにすることで、学校を市場原理のなかにほうりこみ、生徒に選ばれない学校は予算配分をすくなくしてやがて倒産させ、「よい学校」は生徒に選ばれてますますよくなる、という理屈でしょう。戦後のみならず、明治の学制以来の教育の機会均等を国家によって維持するという建前自体がここでは放棄されるわけですから、近代学校教育にとっては、その根幹にかかわる「変革」であるでしょう。
 では「ゆとり教育」は「人格の完成」を目指すという理念的なところにとどまり、産業社会ときれた「一人ひとり」の人格形成をめざしたのかというと、それはちがうだろうと思います。文部科学省は「新しい学習指導要領の基本的なねらい」を「完全学校週5日制の下,各学校が「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し,子どもたちに学習指導要領に示す基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせることはもとより,自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむ。」としています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/010801.htm#05
 このねらいを達成するために「総合的な学習の時間」を設けたわけです。この「総合的な学習の時間」は、日本の教育史の中で系統的な学習を批判してきた生活と学習を結びつける系譜に位置づける議論もあります。
http://cert.shinshu-u.ac.jp/center/bulletin/2001/0000317912.pdf
(問題解決学習の授業に対する授業分析の方法に関する研究)
問題解決学習やプロジェクト・メソッド、仮説実験授業などの戦後教育の流れの中に総合的な学習の時間を定位しています。
 また、そうした生活と学習を結びつける実践を集めた成果も出されているようです。
http://www.shinhyoron.co.jp/cgi-db/s_db/kensakutan.cgi?j1=4-7948-0704-X
(『あっ!こんな教育もあるんだ --学びの道を拓く総合学習』)
 ところが、教科の系統的な学習ではなく、「生活」のなかから共同の探求のなかで問題を発見するというやりかたは、企業の中で日常的に行われている企画会議などの方法と極めて近い関係があるのです。総合的な学習の時間=プロジェクト学習という定式は、創設の当初からあったのではないでしょうか。下記の引用は、1999文部時報(文部省発行)に掲載された鈴木敏恵の「愛で未来教育!プロジェクト学習&ポートフォリオ評価」をさらに詳しく説明したものということです。だいぶ長い引用で恐縮ですが。

〈いま時代へ先端的な仕掛けを投げかけようとする人々の口から必ず飛び出す表現が、この「プロジェクト」という表現だ。「プロジェクト」という言葉は、共有を意味する「シェア(共有)」と並んで、米国教育界のキーワードともなっている。それは、すでに定型化した仕事や作業の一部ではなく、ある目的を果たすための構想や計画全般を指す。日本でも「総合的な学習の時間」にフットする学習として広まりつつある。
 <プロジェクト>という言葉は、ある目的を果たすための「構想」や「計画全般」を指す。それは、1人で出来るものではなく、「組んでやる他の存在」と、その目的に至る「フェーズ(局面・段階)」の上に成り立つ「一定の継続的な時間」が要る。
 これを学校における「総合的な学習の時間/プロジェクト学習」に置き換えると、次のような視点が必要となる。
 <テーマ>の設定をどうするか?。
 教科書の存在がない<プロジェクト学習>。テーマは、誰かが与えてくれるものではない、自分で考え、探し出すものである。それは、子ども達みんなが一年間掛けて向かう船の行き先、目的地となる。そのプロセスで、子ども達が確かな力を身に着け、成長していく。そのようなシーンをいかに登場させるか、そこに教師のセンスが光る。
 <プロジェクトリーダー>は、誰か?
 リーダーは、子ども達によるプロジェクトチームのメンバーが担う。それはフェーズごとの判断や方向を決めていく大切な役割である。また、どの段階で、どうテクノロジー(コンピュータ&ネットワーク)やスキルを持った人を活かすか、というようなことを考えるのも大切な仕事である。
 <フェーズ(局面、段階)>を想定する。
 教師には、起こり得るであろう、”先を見る能力”が要る。そして、解決のためには、「どんなリサーチが必要か?」「それは、どう調べればいいか?」「さらに適切な情報を得るため、専門家に会って話しを聞くことが必要か、」「そのアポイントメントは、誰がするか?」あるいは「インターネットで情報収集するか?」「それをどう集計するか?、どんなやり方でするか?」等々起こり得る局面をイメージし事前に手を打ち、極力スムーズにプロジェクトが進行するようにする。
 <成果(作品)>を出す。
 そしてフェーズごとに、出された成果を次のフェーズに続けながら、ゴールへ達する。その<最終成果(作品)>は、「インターネット上にのせる」、「レポートにまとめる」あるいは、「コミュニティー」や「その道の専門家」や「役所」へプレゼンテーションするなどがあり得る。〉
http://www.suzuki-toshie.net/project.html

 こういうプロジェクト学習で使われる用語に「ポートフォリオ(portfolio)」というのがありますが、これはもともと株式用語で「有価証券一覧表」をさすそうですが、ポートフォリオ評価法として総合的な学習の評価法になっていきます。

ポートフォリオ評価法は総合的な学習評価法として、ロンドン大学のS.クラーク教授を中心に考案され、1980年代後半にUKやUSAで取り入れられ、1990年代後半に日本に入ってきました。従来の科目テストや知力テストで測定できない個人能力の質的評価方法とされています。学習過程で生徒が作成したさまざまなものを収集し系統的に選択し、教師とともに生徒自身も自己評価を行い、ステップアップしていくというもの。〉
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/039portfolio.html

 この言葉は一部の教育工学や教育経営学の学者が使っている言葉だろう、くらいに思っていましたが、そうでもないようです。
 さいたま市教育委員会の初任者研修のテキストの「総合的な学習の時間の評価の役割」の項目には「児童生徒全員を、全観点で毎時間評価することは不可能ですし、その必要もありません。児童生徒の実態や学習過程・学習活動の特質を踏まえ、いつ、誰を、どんな観点で、どんな方法で評価するかを重点化し、ポートフォリオ等を活用して計画的に評価する必要があります。」と記述されています。
 おっと、ポートフォリオって教育用語だったのだ。知らなかったー。しかも初任者研修のテキストで注釈なしででてくるのだから、教員養成の大学などでは教えていたわけ?
http://www.abetaka.jp/riron/sin/sin3.html
 
 総合的な学習の時間に込められた意図は、会社(=社会)で通用する人間の思考訓練の場として設計可能なようにできていたのでしょう。ですから、この「ゆとり教育」は、役に立たない「系統学習」を詰め込むより実践的な学力をつけてくれ、ということでしたでしょう。これは現行の学校制度の内側から産業界の要請する「人材」育成をできるプログラムとして設計されていたといえるでしょう。ところが、この「ゆとり教育」を批判するバウチャー制度導入は、外側から近代学校が建前としても維持してきた教育の機会均等を壊すものなのではないでしょうか。
 総合的な学習の時間は、「人格の完成」と「企業社会の人材育成」の二股をかけていたともいえましょうが、そうした試みが産業社会の要請に逆らっているわけではないことは、労働力のいっそうの階層的生産を実証した苅谷氏の研究から明らかだといえましょう。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4842085258/nakaharalabne-22
(『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』)
 そうだとすれば、教育再生会議の方向は、必ずしも産業界の全面的賛同を得られるとは限らないかもしれません。


写真はhttp://shinshomap.info/theme/entrance_exam.htmlより