複製技術時代の授業

習字


 習字は明治時代以前から寺子屋でも「手習」として学びの中心でありました。師匠・先生の「お手本」の見習って書く習字という学習の原型は、教師の世界でも長い間、その「実践」を規定してきました。
 教師を目指すものは、優れた授業を見学し、その先輩の授業を見習って「教育実習」をしてきたのです。ひと昔まえに教師になった人たちは、斎藤喜博とか林竹二とか、優れた授業実践に学びながら、自らの授業を良いものにしようとは努力してきたものです。それは大工さんや左官屋さんが親方の仕事を学ぶ仕方と同じとも言えるでしょう。ですから教師の仕事は職人の仕事だ、ともいえるでしょう。それは教師専門職論という議論にもつながりましょう。
 しかし、もう少し別の視点から言えば、教師は「お手本」の授業を見て、それを真似ること、はっきり言えばお手本のコピー、それもお手本にできるだけ近いコピーを作成することに熱を上げてきたのだ、と言えるかもしれません。ところがその授業実践のコピー作業は、ちょうど絵画作品の忠実な複製が困難なように、芸術作品のような閾に達している「授業」や生徒指導などを「まねる」のはなかなかに困難なのです。
 大西忠治のため息は、この困難から生まれましょう。

〈教育は商売のかけひきとは違う、人間の誠実さや正しさで堂々とぶつかるのが本筋だとは、私も思っているし、それを疑っているわけではない。商売にしたところが、単なるかけひきは、やがて相手にみぬかれる時はかならずくるのである。/そのことを百も承知した上で、なお私がこうするのは、ひとつには、私自身が生徒たちの手本になり切り、生徒たちに裸でぶつかって人格を通して教育をし切る自信が持てないからなのである。私は教育者として正しい人間でありたいとは思う。しかし現実に、その気持は毎日私自身によって裏切られているのである。私は普通の人間的な欲望を持ち、ときには、普通の人間以下の行動をしないとも限らないのである。「誠実に子どもたちにぶつかること」が正しいと知ってはいるが、自分が誠実にしているつもりでも生徒たちにそのためにかえってバカにされ、思いきって不誠実に生徒たちに一ぱつゴツンと腕力でむかってやったほうが現実の一時間の授業の授業能率をあげることができることを経験させられるからである。生徒たちを向上させたいという願いと、人間として教師としてりっぱでありたいという願いは決して他の人にくらべて弱くはないと信じているけれども、私は現に、国分一太郎先生や山びこ学校の無着先生や、近藤益雄先生や、鈴木道太先生などのような、人間的なあの不思議な魅力を持った人間ではないことを……自覚しないではいられないからである。だとすると私は、私のめざしている、そして、男女仲良く協力しあうとか、一時間の授業を静かに受けるとか……その他、文部省の道徳教育のプランに入っていたそれらのまったく反対しようのないよいことを実現するためには、どうしても自分の人格からはいちおう独立したてだてというようなもの、技術とでもいうようなものとして、あらゆることをこころみてみないではおれないからである。大西忠治(1963)『核のいる学級』明治図書
 (http://nanbook.com 教育の境界7月例会 倉石レポートから孫引き)

 向山洋一の教育技術法則化運動が、多くの教師を引きつけたのも、授業が名人の域に達しなくても、その「技術化」で名人と同じような授業は可能であるというところにあったでしょう。
 しかし、戦後民主教育の中で「教育」は戦後社会をリードした「民主主義思想」という普遍的な思想と一体になっていましたから、たとえば斎藤喜博の「授業」は彼の民主主義思想と不可分でした。(もっとも斎藤喜博は民主教育を「政治」から分離し戦後民主教育運動を「学校」のなかに限定するイデオロギーを生産して時代を画してしまうのですが。)生徒指導技術や授業技術を斎藤喜博から抽出できたとしても、「民主主義」思想を「技術化」してくることは至難の技です。しかし、民主主義が学校という制度や慣行、はては通達文書や書式のなかに内在していってしまえば、これはもはや意識的「実践」の対象ではなくなり、だれもが前提にする常識になりましょうから、教育技術は、その教育思想を気にかける必要もなくなります。
 戦後民主教育のなかには、学校での生活をとおして子どもたちの半封建制にまみれた生活や生活意識を改善するという使命もありました。ですから生活指導はそれが「規律訓練」であったとしても、戦前の軍隊を範型とする「規律訓練」とはちがっていたでしょう。少なくとも主観的には。そうだとすると、戦後民主教育のなかの教育実践は、民主主義思想という普遍的なものと「規律訓練」を含んだ生活指導とは一体のものとして分離していなかったのだろうと思います。
 ところが「教育」の技術化過程の進行によって、「民主主義思想」は「授業技術」や「生活指導技術」との内的連結を切断されていくようになったのではないでしょうか。
 こういう分離過程がない限り、名人芸としての「授業」を模範とする教師像を、それと不即不離に結びついていた「民主教育」思想を、教師の中から追い出すのはより難しくなったはずです。民主主義思想は、イデオロギーであるまえに、一人の教師の立ち居振る舞いとして現れていたのだとすれば、それは技術主義的なコピーでは到底学べないものだったのです。
 それを、コピー可能な実践として描き出したところに大西や向山の「転換」の歴史的意味があったかもしれません。プロ教師の会の「実践」は、イデオロギーとしての民主教育と教育実践を切断したところに大きな歴史的「意味」があったのかもしれません。以後、教育は、「反動的!」と言われないで「規律訓練」教育を実践することができるようになりましょう。これはいまや現在となった「未来」の先取りであったと言えないでしょうか。
 コピー可能になった「教育実践」は、当然のことながら、そのコピーの精密度を段階別に分類し「評価」可能になりましょう。ただし「教えること」が教師の主たる仕事という位置づけがあるかぎり、名人芸を範型にされてしまいます。ですから生徒の「学習」の「支援」が教師の主たる任務ということになれば、このコピー不可能な授業を王座から引き下ろすことができるのです。生徒の「学習」の成果で教師の技術修得度は測定できるからです。
 ところで、こうして民主主義=教育思想=規律訓練と一体化していた「教育」が、テーラー方式よろしく、さまざまな技術の集積に分離可能なものにされていく中で、「民主主義=教育思想」はどうなっているのか、いくのか、ということが問われなければなりません。いわば思想的な空白として、「教育」は「校庭開放」されているのです。ここにさまざまな「学問」「市民」「国家」「社会」そして「不審者」が入り込んできているのが現在ではないでしょうか。ここをどのように読み取って「未来」への補助線を引くのか。それが、この雑文の困難な課題でもあります。


写真はhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~syodo/bacya.htmより