授業という範型

授業風景 昭和35年

 授業を聴いて質問したりノートしたりして学習し、その「成果」を試験で確認する、という学校のルーティーンは、学校以外にもその範型を広げてきました。たとえば○○研究会とか××学会などの知識生産集団では、講師を呼んできたり、お互いの研究成果を発表して、質疑応答、それから共同研究や個人研究による論文作成、本の出版というルーティーンが一般的でしょう。論文作成や本の出版は、「評価」に晒されます。まあそれが考査ということになりましょう。その評価が学会とか研究会の仲間集団に、広くて出版界など限られている場合を考えてみれば、これはほとんど学校のルーティーンと同類だということができましょう。
 産業界でも同じことが言えましょう。たとえばマイクロソフトなどの会社がOSを作るには、多数のプログラマーを抱えて開発し、そのソースコードはもちろん企業秘密ですから非公開です。どこぞのオープンソースに「盗用された」と大騒ぎして「著作権侵害」で訴えたり、そのオープンソースでできたソフトを使ったら訴えぞと脅したりしています。企業ではソースコードをお互いに点検することができるのはその会社の開発プログラマーだけでしょう。その貢献度によってプログラマーの成績はつけられましょう。ですからこれも学校という閉じた学習空間を範型としています。
 知識や情報の生産がこうした学校的組織のなかでだけ生産されている時代であれば、学校という近代組織も研究会や学会も、またマイクロソフトもずーっと安泰だったろうと思います。企業は学校秀才を集める努力をすればいいわけで、それは出身学校やその成績で判断すればよかったわけです。学校の秩序も正統性も、そうした企業の就職状況で維持されてきたわけですから、学校は授業のルーティーンを範型として生産することで自らを再生産してきたわけです。
 さて、大学でレポート作成を学生に課すと、昔なら授業の内容やそこで紹介された文献を図書室で借りたり購入して読んでレポートを書いたものですが、いまではgoogleやyahooあたりで検索して、継ぎはぎのレポートを作成して大学の先生を悩ましています。そこで大学の先生は、インターネットに乗っているものは屑だ、そんなものは当てにならない、と学生に説教したりします。それは一応間違ってはいないでしょう。なにしろ学会などで磨き上げられた本や論文は「著作権」関連で、多くの場合はネットにはまだ乗っていませんから、検索に引っかかるのは、そういう「学校的」知識生産のルールの外で生産されたものが多いからです。ですからインターネット利用を肯定する大学の先生にしても「玉石混交」だからちゃんと見分けないとイケナイよ、とアドバイスしましょう。ところが学生はなにが「石」でなにが「玉」なのか、その判断基準を「授業」ばかりで得るのではなくて、まさにその「玉石混交」のインターネットから探してこなければなりません。しかも○○大学研究紀要とか何とか学会誌などを、とりあえず参照できなければ別の参照可能などこの誰が書いたかわからない文章をみてしまいます。
 学生がたぶんよく利用するのがwikipediaあたりでしょうか。これこそ誰が書いたかわからないものですが、wikipediaの正確度を科学雑誌の「ネイチャー」が調べたら、ブリタニカ百科辞典を上回ったという報道があるようです(英語版のほうでしょうが)。これは多数の人が間違いを修正することが可能なようにシステムができているからだということです。(梅田望夫ウェブ進化論』)これを梅田さんが「wisdom of crowds」(群衆の知恵)だ、と言っているのにであったとき、私はネグリとハートの「マルチチュード」を連想しました。インターネットという巨大なコミュニケーションシステムは〈帝国〉の基盤をなしていると同時に、「マルチチュード」が育っていく土壌だということが見えてきたように思ったからです。
 リナックスはプログラムソースを公開し、地球上の多くの人たちの共同作業で、いまやマイクロソフトの足下を脅かすような存在になってきました。
 いいかえれば、近代学校の知の生産システムは、それを乗り越える世界システムの到来によって大きく脅かされ、崩壊の縁に立たされているのかもしれません。このことがはっきり見えていないとしてもシステムの管理人は本能的にそれを感じとるのでしょう。「教育改革」の合唱は、そうした「おびえ」が裏に張り付いているのです。


写真はhttp://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20020308/3-8-19.htmlより